44人が本棚に入れています
本棚に追加
「ピアノ、気になりますか?」
調理場にオーダーを伝えに行っていた男性店員が、店に戻ってくるなり、僕の視線に気付いて尋ねてきた。
「いえ、気になるわけでは……」
ピアノが気になるというよりも、このピアノを弾く人物が気になっているのだけど。
僕は内心を誤魔化すように、ピアノから男性店員に顔向かせてほんの少し話題を変えた。
「これ…有名なピアノですよね」
「よくご存じなんですね。外国の一流ブランドのピアノだそうです。と言っても、いただいたものなんですけどね」
彼はピアノとは反対側にあるカウンターの中で僕の注文したサンドイッチセットに付いているアイスコーヒーを作りはじめていた。
カコンカコンと氷が不規則にグラスにぶつかる音が響いてくる。
「何か曲のリクエストがあればお受けいたしますよ?」楽しげに提案してくれた。
「いえ、お仕事の邪魔になってしまうのは申し訳ないので…」
「大丈夫ですよ。ディナーで弾く前に、ランチが終わってお客さまの少ない時間に練習してるだけですから」
遠慮した僕に店員は親切に説明してくれる。
すると奥のテーブルについていた客が席を立った。
「ありがとうございました」
店員は愛想よくその客を会計のカウンターまでエスコートした。
そして店内の客は僕ひとりになったわけだ。
間もなく、彼女に、会えるのだろうか。
期待が膨らむ一方で、偶然とはいえこんなストーカーまがいな事をしているのはどうなんだと、激しく迷いが生じていた。
けれどもう注文してしまったわけだし、今さら席を立って帰るのも失礼だし…
そうやって、自分に言い訳を探していた。
「お待たせいたしました」
僕の葛藤を知るはずもない店員が、愛想よくアイスコーヒーとサンドイッチをテーブルに並べてくれる。
白いコースターには、音符の絵が描かれていた。
「ありがとうございます」
礼を告げて、アイスコーヒーのストローに口を付けた、まさにそのときだった。
カラカラン
扉が、訪問者を知らせてきたのだ。
「おう、のぞみ。ひとりで来たのか?」
カウンターに戻りかけていた店員が扉に振り向いて、親しげに声を投げかけた。僕は ”彼女” が来たのだと察した。
けれど、咄嗟にはその方向を見られなくて。
本当に、本当に彼女なのだろうか。
いくらアイスコーヒーを見つめていてもその答えを確かめられるはずもなく、僕は、ひと呼吸おいてから、意を決して扉に顔を向けた――――――
――――そこには、まっすぐにおろした黒くて長い髪が印象的な、スタイルのいい女性が立っていた。
そしてその女性は駆け寄った店員に「お店の前までママに送ってもらったよ」と笑いかけた。けれど、その小さな顔には濃いブラウンのサングラスがかけられていて、表情の全てを読みとくのは難しかった。
細いデニムパンツ、袖幅の広いカットソーという服装にそのサングラスはとても似合っていて、まるでモデルのようにおしゃれだなと思った。
彼女が『21時のピアノ弾き』に出てくる女性だということは、もう疑う余地がなかった。
コメントの情報は、正しかったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!