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「で、おふくろはもう帰ったの?」
店員が訊いた。
その内容から、彼はのぞみさんの兄だったようだ。
僕は思ってもなかった展開に些か驚き、姿勢を変えた瞬間、カトラリーに肘が当たってしまった。
「うん。友達と約束があるって……あれ?まだお客さまがいるの?」
僕の肘がつくった僅かな音を、彼女はすぐさま拾い、店員への返事を途中で止めて探るようにこちらを向いた。
「ああ、ピアノに興味がおありの方で、お前を待ってくださってたんだ。リクエストにお応えしろ」
不思議そうに訊いた彼女…のぞみさんに、兄の権限だと言わんばかりに店員が命じた。
「それは構わないけど……」
ちょっと驚いたように返したものの、その声はとても澄んでいて、まるで彼女の奏でるピアノのようだった。
「紹介します。妹の月島のぞみです。こう見えて、実は音大生なんですよ」
店員が僕に対してやや大きめの声で言った。
「はじめまして。月島のぞみです。ええと…」
「これは失礼いたしました、僕は東雲宗一郎といいます」
僕が名乗ると、のぞみさんは「東雲さん…かっこいいお名前ですね」と言ってくれた。
「でも言いにくいでしょう?よろしければ宗と呼んでください」
「分かりました、宗さんですね。それで、何をお弾きしましょうか」
尋ねながらピアノに歩きだした。
店員は彼女を見守るように見つめている。
のぞみさんは椅子に座ると、鍵盤の縁にそっと指で触れて、その慈しむような仕草が、本当にピアノが好きなんだなと思わせた。
「リクエスト、どうなさいますか?」
店員が僕の席まで来て尋ねる。
「そうですね……あまり曲のタイトルを知らないのですが……ゆったりした曲が、いいですね」
『21時のピアノ弾き』では速い曲も演奏されていて、それも魅力的だったけれど、僕は、バラードのような静かな曲の方が好きだった。
「ゆったりした曲ですね、分かりました」
のぞみさんは頷くと、少し考えるような間をとって、おもむろにサングラスを外した。
けれど、その目は閉じられていて。
そして彼女は、外したサングラスを、ピアノの上に倒したままになっている譜面台に置いて、座る位置を調整した。
すると店員がコソッと告げたのだ。
「妹は、目が見えないんです」
目が見えない―――――
その一言に、僕は、彼女を凝視した。
やっぱりのぞみさんは目を閉じていて、でもそんな風に感じさせないほど自然に、容易く、音を奏ではじめたのだった。
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