Prologue :: My beginning day

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Prologue :: My beginning day

 僕の記憶はあの美しいアジサイの下から始まる。僕はいつだって、あざだらけの体を横たえながらそれを見上げていた。  娼館の主人アゴールは、不条理と暴力の化身のような男だった。娼婦の子として生まれた僕を「役立たず」という名前で呼び、下男としてこき使っては、難癖つけて暴力をふるった。僕は気絶させられるまで殴られると、いつも裏庭のアジサイ前に放り出され、目覚めるとまた娼館へと戻ることを繰り返していた。  逃げ出すという発想はなかった。生まれたときからアゴールに支配されていた結果、他人に命令や許可を貰わないと何もできない人間になっていた。どの道、逃げ出したところで娼館の外は貧民街だ。栄養失調の貧弱な体では、盗みも殺しもできずに飢え死にするほかなかった。  僕が心の拠り所としていた裏庭のアジサイは、元々この地に自生していたものだ。アゴールは邪魔だと言ったが、領主ヴァンサライがアジサイを司るコーレニ(純血の一族)だったから、勝手に引き抜くことを許されずに、そのまま放置していたのだった。  ガルドロに出会った日、僕はそのアジサイの根元に女を埋めようとしていた。  大粒の雨が強く降っていた。「雨に呪われた街」と客に言われるほど、貧民街はよく雨が降るところだったが、その日だけは僕でさえもそう思わずにはいられなかった。シャベルの柄は滑って使いづらく、雨水が掘ったばかりの穴に流れ込んで溜まっていく。すぐに土が掘り出せなくなった。  諦めてシャベルを捨てた。両手のまめが潰れて血まみれだったが、思うように穴が深く掘れなったことだけが心配だった。寒さで震える体を動かして娼館の壁際に歩み寄ると、裸の女の死体があった。全身新旧入り混じるあざに侵食されている。まるでアジサイだった。  この情景は、僕が大人となった今でも、一番よく思い出すアジサイの記憶だ。 「きれいだよ、三番」  心がうちふるえて涙がこぼれる。人が苦痛以外の感情で泣くことができるのだと初めて知った。  僕は、ずっと、アジサイを特別な花だと妄信していた。  何度体にあざが出来ても、時間とともに消えていくのは、アジサイが色も痛みも、全て吸い取っていくからだと信じていた。そして女のあざは、この立派なアジサイでさえも吸い取ることができないほどの色だったと悟った。  女はアゴールに“三番”と名付けられた、貧民街一の娼婦だった。財産は容姿に恵まれた身一つだけ。それを棄てることで彼女はアジサイになった。それはとても美しい姿で、羨ましかった。  一分か、一時間か、どのくらいの間、見惚れていたのか分からない。自分の背後に傘を差した男が立っていたことに気付いた。ひどく醜い男だった。顔面の皮膚がただれて黒く変色し、泥人形のようだ。 「――」  男は何か言ったが、雨音にかき消されて聞えなかった。  彼がこの貧民街の者でないのは確かだった。こんなに目立つ風貌の男は見たことも聞いたこともないし、服装も上等で清潔だった。金持ちがお忍びでこの娼館にやって来ることは珍しくなかったし、こんなに醜い風貌では、普通の女には相手にされないのだろう。 「娼婦なら中だよ、生きてるやつは」  路上に捨てられた娼婦の死体を見たからといって、買春をやめた客などいない。それがこの娼館の事実だった。  男は何も言わずに立っていた。僕は返事を待つ時間が惜しくて、三番の体を掴んで引きずった。鋭い骨端が、皮膚を突き破って出ている。アゴールに二階から投げ捨てられる前から、そうなっていたのかどうかは分からない。 「もしかして、死んでるほうがいいの?」  男があまりにもじっと立っているので、僕は精一杯、声を張り上げた。男は僕の下腹部を見ていた。僕は「よく間違われるけど」と前置きをして言った。 「見てのとおり男だよ。もしかして僕がいいの? そういうことなら待っててよ、値段がないから付けてもらわないと。ああ、でも屍姦になるかもしれない」 「なぜ服を着ていない」  僕は質問の意味を捉えきれずに手を止めてしまった。服がどうしたのだというのだろう。  しばらく考えてようやく、自分が裸で生活していることが、部外者とっては非常識だということを思い出した。 「服なんてないよ、着る資格もない。“役立たず”は商品にすらなれなくて金も稼げない、だから服も何も貰えない」 「食事はどうしていた?」 「昨日までは、三番がパンをくれていた」 「三番?」 「これ」  僕は三番を穴に落とした。 「たぶん僕を産んだひと」  なけなしの体重を掛けて三番を折り畳む。おかしなところで曲がった体は、小さくまとめることができて安堵した。もう穴は掘らずに済む。  突然男が近付いきた。開いたままの傘を僕に押しつけて、穴の前にひざまずく。その黒くただれた手を三番の顔に添えた。頬を撫でる手の動きは、醜怪なカタツムリのようで、ぬらぬらと跡を残すようだった。  僕が押し付けられた傘を差すこともなく立っていると、男はシャベルを掴んで埋葬を始めた。客が娼婦を埋葬するだなんて――僕はたじろいだ。他人の理解できない行動ほど怖いものはない。 「アゴールに用がある。案内しろ」  男はシャベルを置いて言った。僕は黙って彼に傘を返し、先を歩いた。アゴールの部屋の前に来たときも男は傘を持ったままだった。
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