Slum cursed the rain

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Slum cursed the rain

 早朝、まだ客が帰るには早い頃だった。窓の外から足音が聞えた気がして、レインは筆を置いた。閉め切っていたカーテンの隙間に指を差しこんで裏庭を見下ろす。アジサイの陰から傘を差したガルドロが現れた。片手に人を抱えている。その垂れ下がった手足は生白く、頭には布袋をかぶせられていた。  レインは再び筆を持って、キャンバスに向かった。キャンバスには、湖畔で水浴びをしている裸婦が描かれている。  十三になったレインが興味を持っているのは、ふくよかな女の体ではなく、絵画の中の青く晴れた空や、輝く湖畔の水の清さだった。この貧民街の景色にはない鮮やかさは、目に痛いほど眩しく、不自然で気味が悪かった。自分が一生見ることもない街の外の風景は、本当にこんな色をしているのだろうか。  実際に自分の目で見たことのないものを描くことは、嘘をつくことと変わりない。レインはそう思っているし、今描いている絵だって会ったこともない他人の絵だった。  レインが有名な画家の贋作を描き、それをガルドロが真作と偽って売るーー詐欺だろうが何だろうが、秘密裏にこの仕事をこなすことで娼館にいることを許されているのだから、レインに罪悪感も迷いもない。  「お前には絵の才能がある」とガルドロに言われたのはもう三年前のことだ。 ――「私はある方の指示でベルタという女性を探していた」  話し始めたガルドロが、仕込み傘についた血を一振りした。足元に全身赤紫色になったアゴールが転がっている。一突きで殺せたはずなのに、その剣を使ったのは金のナックルを指ごとを切り落とした時と、今レインの目の前で息の根を止めた時だけだった。  レインは目の前でアジサイになっていくアゴールを、ただ、食い入るように見ているだけだった。 「生きてベルタをあの方の許へと帰すつもりだったが、もう叶わない」 「……三番のことを言っているの?」 「名前すら教えていなかったのか。哀しいことだ」  哀しいとはどういう感じだろうか。レインはただれたガルドロの顔を見ながら、少しも分からずにいる。 「あなたは、僕が三番の……ベルタの子どもだと分かるの?」 「お前は彼女に生き写しだ。だが私は、彼女がどんなふうにお前を産み育て、どんなふうに暮らしていたのか、何も知らない」  ガルドロが振り返る。 「なぁ、彼女はどういう顔をしていた? あんな酷い顔になる前は」 「酷い顔?」  レインの口から苦笑がもれた。 「僕にはとても、きれいな顔に見えたよ。アジサイと同じだったから」  レインは目を細めて微笑む。幽鬼を宿したような微笑み。しばらくはその表情が消えないほどに恍惚の境地に入っていた。ガルドロにはその理由の見当も付かなかったが、レインは母親の死に方を、心の底から喜んでいた。 「……“ほどこし”を返させてよ」  レインは膝元に落ちていた金のナックルを拾った。そのナックルに皮一枚でつながっていた指を引きちぎり、深紅のビロードの絨毯に押し当てた。 「何をしている」 「三番がどんな顔だったのか知りたいんでしょ? 僕に描かせてよ」 「子どもの絵などに期待しない」 「期待なんかじゃない、ただ命令して欲しい。僕は一度見たものは絶対に忘れないんだ。その輪郭をなぞるだけでいいんだ。だから描かせて」 「いらないと言っているだろう」 「……じゃあ何をすればいい? 僕はどうすればいいの?」  レインは血濡れの指を床に押し付けたまま、崩れるように座り込む。 「あなたから受けたほどこしは、どうすれば返すことができる? 役立たずがほどこしを受けたまま死ぬなんて、普通じゃない」 「お前は死にたいのか」 「死ねというならいつだって死んでみせる、それでほどこしを返せるなら。……でも僕の命には価値がない、僕は何も持っていない」  命令してくれる人がいなくなった今、自分では死ぬことも生きることもできない。 「ねぇ、どうすればいい?」  ガルドロは何も答えなかった。  途方に暮れるしかなくて、レインは目を開いたまま静かに涙を流した。自分が死ぬ時は、三番と同じようにアジサイになるはずだったし、そうなることを切望していた。  それすら叶わないのか。  だとしたら、どんな手段を使っても抗ってみせたかった。 「僕を凌辱してよ。殴って、蹴って、ぐちゃぐちゃに犯して、捨てて」 「……普通じゃないのは、お前の頭のほうだろうな」  ガルドロはレインの腕を掴んで、机の前に座らせた。机の上からペンとインクびん、紙以外の全てをなぎ払って落とす。 「そこの屑を始末したことをほどこしだというのなら、私は与えたつもりなどない。私は私の意志でそうしたまでだ。描くことでお前が救われるというなら、気が済むまで描き続ければいい」  レインはペンを握った。文字どおり、握った。幼児がフォークを握るような格好で、稚拙としか言いようがない。  ガルドロは静かに溜息をついた。机の引き出しを物色し、娼館の権利書を見つけて懐にしまい込む。そして振り見た時にはもう、レインの手元に女がいた。 (ベルタ)  ガルドロの瞠目をレインは知らない。黒い皮膚の奥から赤紫色の目が紙上を凝視している。ベルタが確かにそこにいた。口元に微笑をふくみ、枯れ木のような腕をこちらに伸ばしていた。痩せて削げ落ちた頬や胸元、そこに癖のない長い髪がはらりと落ちている。疲れを滲ませまいという表情が気高く、艶美だった。その涼しげな目元が優しいのは、子を見ているからだろう。 「お前には絵の才能がある」  ガルドロはレインの頭に手を置く。 「仕事をやる。しかしこれは誰も話してはならない、いいな?」―― 「レイン、来い」  部屋の外からガルドロの声がして、レインは筆を置いた。ドアを開けると、少女を抱えたガルドロが奥の部屋へと入っていくのが見えた。レインはすぐに絵具で汚れたエプロンを椅子にかけ、奥の部屋へと向かった。あの日から、自分の主人はガルドロだと信じて疑わない。 「なんでしょうか」 「話し相手になってやれ」  命令とも言いがたい手ぬるい指示に、レインは「話し相手ですか?」とオウム返しした。階下から、客が帰り仕度を始める声や物音が響いていた。  新人の相手なら、同じ女の方がいいだろう。レインの頭に真っ先に思い浮かんだのは、少女娼婦のユフカだった。しかし彼女は今、客の相手をしている。 「まだ絵が仕上がっていないのですが」 「お前の腕なら今夜までに間に合う。こちらが先だ、そろそろ目を覚ます」  ガルドロは少女に手錠をかけた。手錠は鎖で壁に繋がっている。端は壁の中に埋め込まれていて、引き抜けそうもない。少女はまだ気を失っているらしく、床に転がされたまま動かない。ガルドロが頭の布袋を取り去った。 「じきにユフカをここへ寄越す。お前はそれから絵に取りかかれ」  レインが深々と頭を下げると、ガルドロは部屋を出て行った。残されたレインは目の前に現れた美少女を見る。 「訳ありか」  見事な金髪と愛らしい顔立ちだった。その白い手足は傷ひとつなく、ふっくらとしている。あの絵の裸婦と同じだ。高価なドレスを着て、茶菓子を摘まみ、何不自由なく暮らしてきたのだろう。貧民街には場違いの気品が、少女の内側から発光して縁取っているかのようだった。  少女を見ていると、自分がいかに外の世界を知らない、無知で底辺の人間であるかが分かる。少女との共通点があるとするならば、年が近いことくらいだろうか。まだ幼さの残る頬を見て思った。  いや、青色という点では、目も同じだった。
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