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鈴森あいの場合
夜景は遠くから見るからこそ美しい。きらびやかで、温かくて、柔かい。けれど、そこにある生活のリアルを全くなしにして見るのは難しい。
ひとつひとつの明かりをきちんと見ようとして、眼下に広がる夜景を生きるために必要な明かりでしかないと捉えてしまったが最後、それは、ただの生活の明かりでしかない。
昔から感動が薄いわけではなかった。そんなふうに思うようになってしまったのは、たぶん、過去に付き合っていた人の影響だろう。「現実を見ろ」、それがその人の口癖だった。彼の方が歳上だったこともあり、初めこそ、やっぱり大人の男性は違うと、尊敬の眼差しで見ていたけれど、次第に、二十歳そこそこの私は、その大人に疲れてしまった。だから、もう歳上とは付き合わないと心に決めたにも関わらず、今付き合ってる彼も、結局は歳上だ。
──薄く積もった雪に足を取られないよう慎重に歩く。今日は、直人と過ごす三度目のバレンタインデーだ。彼のために昨日の晩からチョコレートケーキを焼き、今朝になってようやく完成した。
数分前に止んだと思った雪が、再びはらはらと舞い始めた。チョコレートケーキの入った紙袋を前に抱え、雪が入らないよう傘を広げた。
「仕事がまだ終わりそうにない」、そう直人から連絡がきたのが夕方過ぎだった。すぐにメッセージを見てぐに
前々から遅くなるかもしれないとは言われていたので覚悟はしていた。メッセージを作っていると、直人から電話がかかってきた。それも、ものすごく申し訳なさそうに切り出すものだから、返ってこちらが申し訳なく思ってしまうほどだった。
「部屋で待っていてほしい」、甘えるような口調に、私は弱い。
慣れた手つきで合鍵を回し、部屋に上がるなり冷蔵庫にケーキを入れた。
脚のないレザーのソファーに座り、ゆっくりと一呼吸つきがら背もたれの上に頭を乗せた。
今日は、今日に限っては、彼がどんなに仕事で遅くなろうともとにかく会いたかった。
何を考えるでもなくぼんやりしていると、私の足元に直人の愛猫がすり寄ってきた。とりあえずといったふうに無表情で撫でてやる。そうしながら、彼には言えない私のリアルを鮮明に思い返していた。
そのリアルを簡単に言うと、浮気だ。
どこからが浮気なのか、などと議論されることもあるけれど、私の場合、間違いなく浮気と呼ばれる類いに入るだろう。
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