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12.これからも、ずっと。
清志郎は……。
彼こそが映画『いつの日かのアラベスク』の原作者である作家・白石雄だったのだ。
清志郎は、『いつの日かのアラベスク』の原作者として、上野水希がオーディションで最も光っていてみどり役として相応しいと思ったということを述べ、北詰尚登の演技を称えて、舞台挨拶は十五分ほどで終了した。
予告編を経て、いよいよ雪降る街のカフェ『RAM』で執筆する宏平役の北詰の姿がスクリーンに大きく現れ、映画が始まった。
しかし、あれほど観たかった映画の内容はほとんど頭に入ってこない。
ただ、清志郎の存在が。
『作家・白石雄』としての先ほどの清志郎の姿ばかりが奏子の頭にフラッシュバックしていた。
***
「ああ。結構いい映画だったなあ。純愛のハピエンてやっぱりいいよな」
約二時間の上映後、エンドロールが完全に終わるまで、席を立たなかった旭良がふうっとひと息つきながらそう言った。
その隣で奏子はまだどこか呆然としながら、エンドロールに流れた『原作:白石雄』という文字が清志郎の姿と重なっている。
「かなちゃん。俺、トイレ行きたいから、出口のとこで待っててくれないか」
「え? うん。わかった」
そして奏子は一人、映画館の出口付近に佇んでいる。
旭良を待っている間にも清志郎のこと、映画のことがぐるぐると奏子の頭の中を駆け巡っていた。
その時。
「奏子さん」
背後から声をかけられ、奏子はビクリと体を震わせた。
このハスキーボイスは……。
恐る恐るゆっくりと振り返ると、
「清志郎さん……」
そこには、あの時以来の清志郎の姿があった。
「舞台の上から貴女を見つけました」
懐かしい清志郎のその声は、彼が姿を消す前と同じくやはり穏やかだった。
「あなたは……白石雄、だったんですね……」
奏子はしみじみと呟いた。
「まだ信じられません……。どうして仰ってくれなかったんですか」
「隠すつもりはなかったのですが。大作家というわけではないし、貴女が……僕の本を愛読してくれているのが嬉しい反面、照れでしょうね。言えませんでした」
そう言って、清志郎は軽く頭をかいた。
「一緒に来られていたのはご主人ですね」
「ええ……」
「仲良く手を繋いでおられたのでそうだと思いました」
清志郎は出逢った頃と変わらない、誠実な澄んだ瞳で奏子に言った。
「ご主人と、お幸せに」
「清志郎さん……」
「僕はあの時。あの十二月の美しい夕暮れに貴女に、確かに触れた。貴女の温もりを感じた。心だけでなく、躰で貴女を感じることが出来た。僕はその記憶の温もりだけでこれからも生きていける」
清志郎は、両手を握り締めた。
それは奏子を抱いた手だった。
「これからもずっと貴女の幸せを祈っています」
出逢った時と同じ澄んだ瞳で奏子を見つめ、清志郎は微妙に唇を歪めると呟いた。
「幸せに……僕が愛した。僕だけの奏子さん」
最後にその一言だけを残して、ゆっくりと踵を返し清志郎は奏子の許を去って行く。
奏子の心に、清志郎との想い出が走馬灯のように蘇る。
カフェ『PRIMEVERE』での突然の出逢い、重ねた深く甘い語らい、そして空の瑠璃色が息を飲むほど美しかったあの冬の黄昏のひとときの抱擁──────
清志郎さん……。
清志郎さん……!
清志郎の背中を追おうとしたその時。
「かなちゃん」
ハッと我に返ると。
「あらくん……」
戻ってきた旭良が、何も知らず。
そう清志郎の存在など、奏子の背徳など露ほども疑わず、いつもと変わらない声で、やはり清志郎と同じように優しく奏子に声をかけた。
泣いてはいけない。
この涙を旭良にだけは見せてはいけない。
自分は旭良とこれからも一生を生きていく。
子を持てなくても、もう清志郎と穏やかで芸術的な触れあいを共に出来なくても、旭良との優しい幸せな人生をこれからもずっと……。
奏子はぎゅっと右手を握り締めた。
「かなちゃん?」
「帰りましょう。あらくん」
にっこりと奏子はこれ以上はないほど艶やかな笑みで微笑んだ。
「かなちゃん……」
「何? あらくん?」
一瞬、目を眩しそうに瞬かせ、自分を見つめた旭良に奏子は小首を傾げた。
「やっと。元気になってくれて嬉しいよ」
「あらくん……」
それは嬉しそうに笑む旭良に、奏子は言葉をなくす。
しかし、奏子はそっと優しく旭良の左手を取った。
清志朗の掌の温もりが一生残るその右の掌で……。
了
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