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1.突然の出逢い
それは梅雨が明ける直前、天気のぐずつく七月のある午後のことだった。
阪井奏子は、自宅近所のお気に入りのカフェ『PRIMIVERE』で、ホットのカプチーノを頂きながら本を読んでいた。
奏子はカフェでお茶をするのを趣味としている。
気の置けない友人とのお喋りも楽しいが、一人でお茶を楽しみながら読書をするひとときは奏子にとってとても大切な時間。
淡いブルーの表紙の文庫本のその第四章まで読み終えて奏子は一息ついた。お手洗いに行こうとして席を立ったその時、つい奏子は本を床に落としてしまった。慌てて拾おうとして、不意に奏子の手の下に誰かの大きな手が滑り込んだ。
「落ちましたよ」
驚いて顔を上げると、優しい声と共に本を拾ってくれた男性がいた。
年の頃はアラサーを少し過ぎた奏子と同じくらい。
さらさらの黒髪、アーモンドシェイプの澄んだ瞳が印象的で、翳りを帯びた微笑が知的なニュアンスを醸し出している。文句なく彼は美丈夫だった。
「あ、あの……、申し訳ありません……」
奏子は、その突然の出来事にどぎまぎしながら頭を下げる。
「貴女もこの本が好きなんですか?」
奏子が読んでいたその本は、流行作家ではないが一部にコアなファンがついている作家『白石雄』の長編小説『いつの日かのアラベスク』だった。
「ええ。大好きです! この小説はお気に入りです。もう何度も読み返しています。……でも、「あなたも」ということは……」
「僕も彼の作品は良く知っています。特に、この本は」
彼は曖昧に笑んだ。しかし、やはりどこか魅力に溢れる笑みだった。
その笑みに抗いがたく、奏子は彼と話を続けた。
「この作品からは……シャミナーデの『アラベスク』の激しくも切り裂くように切ないピアノの旋律が聞こえてくるようです」
それはうっとりと夢見るような瞳の奏子に彼は、
「セシル・シャミナーデをご存じですか?」
と、やや驚いたようだった。
「貴女は、クラシックにもお詳しいようですね」
セシル・シャミナーデは、クラシック音楽通にもあまり知られていない十九世紀生まれのフランスのマイナーな女性作曲家である。
「失礼。もしよろしければ、相席で少しお話出来ないでしょうか」
彼は飲みかけのカフェラテのカップを持って奏子の席の向かい側に座ると、
「僕は、佐伯清志郎と言います」
と名を名乗った。奏子も名前だけ自己紹介すると、二人はすぐに白石雄の作品や音楽の話に夢中になった。
「では、貴女はショパンの方がモーツアルトの十倍天才だと。そう仰るんですね?」
「ええ。少なくとも『ピアノ』でショパンの右に出る作曲家はいません」
「確かに、ショパンは『感情』をピアノの楽譜に載せるという点では最も秀でている。ではスクリャービンは? リストは? どう思いますか?」
「そうですね。リストがピアノの『技術』を駆使するのに抜きんでているのに対して、スクリャービンはピアノという『楽器』を表現することを得意としたように思います。彼のピアノ協奏曲はショパンのコンチェルトと同じくらい、もっと世に知られて然るべきです。」
「まったく貴女も通好みですね。僕も同意見ですよ」
清志郎は嬉しそうに、その切れ長の目を細めた。
それは初対面とは思えない程、弾む会話だった。
しかし、ふと。
そう、追加オーダーした二杯目のティーカップが空になる頃、奏子は清志郎の境遇が気になった。
奏子は、結婚して丸六年になる専業主婦で三十四歳。五歳年上の夫・旭良との間に子供はいない。
だから、気楽にカフェでお茶も出来るが、清志郎はどうなのか。平日の昼下がりのこの時間帯に、水色のストライプの半袖シャツとベージュのチノパンというラフな普段着でのんびりお茶をしているのは何故だろう。
「僕のことが気になりますか?」
手元の白い珈琲カップからちらりと清志郎は奏子に視線を変えた。それは奏子の胸の内を見抜くように、ストレートに奏子の大きな漆黒の瞳を見つめながら。
「僕は最近、このカフェの隣のマンションに引っ越してきたんですよ」
「ここの隣? うちもこの近くのマンションです。ここから徒歩十分の。佐伯さんは今日はお仕事がお休みなんですか?」
「仕事はまあ。していません」
その言葉に、奏子は息を飲んだ。
無職……?
収入がないのにどうやって生活しているのか。
家族はどうしているのか。
「僕は、精神疾患者でしてね。仕事が出来ないんです。幸い実家の不動産収入があるので、食うには困らないんですよ」
「でも。何故、引っ越してこられたんですか?」
その奏子の質問に、清志郎は一呼吸置いた。
「妻を癌で亡くしたんです。妻の面影が残る家にいては、いつまでも悲しみを深くするだけだと気付いたので心機一転、ここに越してきました」
「すみません……」
奏子は目を伏せた。
清志郎の澄んだ瞳を見つめることはできなかった。
「いいんです。お気になさらず」
そう言って、清志郎はとっくに冷めてしまっているカフェラテの最後の一口を飲み干した。
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