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10.「真の幸福」と「真実の恋」
「かなちゃん? どうした」
「うん。ううん……。大津摩の友達、紗雪ちゃん。今度会おうって。行ってもいい?」
「ああ。たまにはかなちゃん、息抜きしてきたらいいよ」
「ケーキどちらも切ったわ。頂きましょう」
「美味そうだな」
「どっちが?」
「どっちもだよ」
そうやって奏子は旭良と二人、イブの夜更けを過ごしている。
そうそれは幸せに、奏子の心をかき乱すメールなど何もなかったかのように……。
***
「奏子! ごめん、遅くなって」
「紗雪ちゃん」
『クラウン・アソシアプラザホテル』の15階・メインロビー階にあるティーラウンジで、奏子は大津摩女子校時代の親友・浦上紗雪と久しぶりに再会していた。
「紗雪ちゃん、髪が伸びたわね」
「シュシュでくくってポニテにした方が鬱陶しくないのよ」
そう言う紗雪の今日のヘアスタイルは鎖骨より長い茶色の髪を綺麗に巻いている。そして、胸元のドレープラインが美しいベージュのブラウスに黒のドレスパンツスーツは紗雪の女っぷりを更に上げている。
「仕事忙しいんでしょう?」
「そうね。時間内に仕事を終わらせるのには必死」
そう言いながら、紗雪はメニューに目を通し、マスカルポーネクリームのオレンジシフォンサンドとホットのロイヤルミルクティーをオーダーした。先に来て待っていた奏子の前には、ガトーショコラと珈琲がある。
紗雪と奏子は中等科から高等科まで同じ大津摩女子校に通っていた。奏子はそのままストレートで大津摩女子大に進んだが、学業優秀だった紗雪は内部進学せず、外部の共学の薬学部に進んで薬剤師の資格を取り、大手調剤薬局で働いている。
紗雪は奏子とは真逆で、自分の意思で子供も作っていない。仕事にやり甲斐を感じているし、半年前に熱烈な恋愛結婚をしたばかりの夫・修輔と当分二人の生活を楽しみ、子供はそれから自然に任せればいいと考えている。
「それで。あの彼とはどうなのよ」
シナモン香る紅茶をティーカップに注ぎながら、紗雪は早速話を切り出した。
奏子は力なく頭を振る。
清志郎からメールを受け取ったイブの夜から三日が経ち、世間はすっかり師走のムードで今年も暮れようとしている。……清志郎に出逢ったこの年が。
奏子は、学生時代から何かと奏子の世話を焼いてくれている紗雪にだけイブの翌日、清志郎のことを隠さず全て打ち明けた。そうでなければ、奏子の神経は壊れていただろう。
こんなこと誰にも話せない。傍から見れば奏子と清志郎の関係は『不倫』でしかない。
だから、誰にも話さず耐えてきた。しかし、もう奏子一人で抱え込むのは限界に来ていた。どうしていいのかわからない。進むべき道を、この恋の行方を誰か教えて欲しい。
そんなわらにも縋る思いの奏子に、紗雪は容赦ない一言を放った。
「悪いことは言わないわ。手を引きなさい」
紗雪は、細長い指で優雅にカップの端を弾きながら言う。
「奏子の手には負えないわ。家庭を壊すだけよ。旭良さんのどこが不満なの。奏子の幸せは旭良さんにあるのよ」
「……多分。それが嫌なの」
「どういう意味?」
訝る紗雪に奏子は呟いた。
「何も出来ない。あらくんの子供も産めない。働くわけでも、子育てするわけでもない全てあらくんにおんぶにだっこの自分。精神的、経済的、社会的……あらゆる意味で自分の力では生きていけない。そんな三十四年のこの人生が」
それは、奏子の抱える根本的な問題でもあった。
もし、自分の人生に自分で責任が取れるなら、旭良の許を去り、清志郎を選ぶという選択肢もあったかもしれない。けれど、それは奏子にとって、仮定以前の問題なのだ。
奏子の現実は甘くはない。奏子は自力では生きていけない。旭良の愛と理解と庇護があってこそ、何不自由なく生きていける。
けれど、その人生に何の意味があるのだろう。
自分が生きている価値などないのではないか……。
「でもね、奏子。奏子は愛する旭良さんから愛されている。働かなくても食べていける。それでいいじゃない。それ以上の幸福ってある? 愛も恋も両方とも手に入れようだなんて贅沢だわ」
旭良に対する想いが『愛』で、清志郎に対する感情は『恋』……。
だから、この愛と恋は本来、両立し得ないのだろうか。するはずがない。旭良を愛していて、清志郎には恋しているなんて虫が良すぎる。
「奏子の幸福は間違いなく今の家庭の中にある。彼のことは忘れることね」
「……忘れられないの。彼が姿を消してからもう身の置き所がない。眠れないし、食べられない。どうしていいかわからない。辛いのよ。あらくんを裏切ることは出来ないけど、彼を忘れることは出来ない」
奏子は手元の薄いハンカチを握りしめた。そのままふるふると肩を震わせ、はらはらと涙を零す。その様子を見て、紗雪もこれは益々放っておけないと表情をきつくする。
どうしたら、奏子が『真の幸福』に目覚めてくれるのか。何より、どうやったら今の奏子のこの苦しみを取り除いてやることが出来るのか。
いや、きっと。誰にもどうすることもできないだろう。奏子は恋をしている。それも、愛されて愛する恋ではない。自ら能動的に相手を求める貪欲な『真実の恋』。
恋は理屈じゃない。こうしろ、ああしろと言われてできるものではないし、ふと気がついたら惹かれていた。それが恋というものだろう。
この恋は、奏子にとって三十四歳にして訪れた夫・旭良以外の男性との二度目の恋。それが厄介でないはずがない。
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