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2.最愛の夫
その日の晩遅く、玄関のドアが開く気配に奏子は嬉々としてパタパタとスリッパの音を響かせた。
「お帰りなさい。あらくん」
「ただいま、かなちゃん」
夫の旭良が帰宅して、二人は玄関口で軽いハグとキスを交わす。
見合い結婚して六年、子供がいないせいもあってか二人は新婚の頃と変わらない仲で、倦怠期も訪れていない。
交際期間中は、お互いに名前を『さん』呼びしていた。
しかし、結婚して旭良は奏子のことを『かなちゃん』と呼ぶようになったので、奏子も旭良のことを親しみを込めて『あらくん』と呼ぶようになった。
かなちゃんはともかく、あらくんは如何かと思わないではないが、その暗号のような呼び方を奏子は存外気に入っていて、旭良の方もまんざらではないらしい。
「今日は遅かったわね」
「ああ、あがってきたモニタリング報告書のチェックで残業した上、三田専務……お義父さんに呼ばれてね。三田派閥に尽力してくれないかって、また打診されて参ったよ」
「あらくんもお父様の派閥に入れば、もっと出世するのに」
「かなちゃんには悪いけど僕はごめんだね。派閥に入って上の目ばかり伺って、他の派閥としのぎを削ってっていうのは性に合わない。それに一昨年、総合企画室課長になったし、僕はそんなに出世欲はないよ」
脱いだ背広を奏子に渡すと、旭良はネクタイを緩めた。そのネイビーのロイヤルクレストタイは奏子が選んだ物だ。
旭良はおよそお洒落ということに関心がない。見合いの席でのダーバンの上品なスーツ姿……それは彼の母・十紀子が選んだらしい……とは一転して、初めてデートした時の旭良の格好と言ったら。それで奏子は、優秀でルックスも人柄もいい彼が何故その年まで独り身だったのかを理解した。
旭良はキッチンの冷蔵庫からミネラルウオーターを取った。ごくごくと旭良の喉が鳴る。
「あらくんはこういう時でも、ビール飲まないわよね」
「酒は別に好きじゃないからね。ペリエの方がそこらのビールより何倍も贅沢で美味いよ」
「昔は『サケ茶漬け』なんか食べたくせに」
「あれは僕のサービス精神の為せる技だよ」
可笑しそうに笑う奏子に対し、旭良は憮然としている。
それは、旭良の務める精密機器メーカーの上司である奏子の父・三田が、旭良と娘の奏子との見合い話を進め、無事婚約が調った際の親族同士の会食の時のことだった。
その席で、悪酔いした奏子の従兄の傍若無人な振る舞いで不穏な空気になった時、旭良は突然、『サケ茶漬け』と称してご飯に日本酒を注ぐと、口にぶっこんだのだ。
周りは唖然とし、しかしその旭良の破天荒な『芸』に場が一気に和み事態が収拾したという事件があったのだ。
奏子は今でもそれを忘れないが、旭良にとっては不本意極まりない事件だった。
「さっきスコーンを焼いたばかりなの。アイスティー淹れるから一緒に食べない?」
「そりゃ、いいな。でも、風呂上がってからゆっくり頂くよ」
「じゃあ、その間にお茶の用意するわ」
「ああ、頼むよ」
そう言って旭良がバスルームに消えた後、いそいそと奏子はお茶の用意を始めた。
ピンクの薔薇模様のランチョンマットを食卓に敷き、お気に入りの猫の模様が入った磨りガラスのグラスを二つと青い陶器のポット、ガラスのポットを食器棚から取り出した。
ぐらぐらに沸かしたケトルのお湯を陶器のポットに注いで温める。その温めたポットにニルギリの茶葉を入れお湯を半分注ぎ、蒸らして濃いめの紅茶を作る。そして、ガラスポットにティーストレーナーで茶葉をこしながら紅茶を淹れた。
奏子は、用意していたグラスにイチゴのコンフィチュールをティースプーン二杯とクラッシュドアイスを入れ、淹れ立ての紅茶を静かに注いだ。ティーは全く濁りがなく、イチゴのコンフィチュールと紅茶の色のグラデーションが魅惑的なアイスジャムティーがうん完成!と、奏子は密かに満足する。
プレーンとダブルチョコのスコーンも焼きたてだったが、レンジで少し温めた。
冷蔵庫からクロテッドクリームを取り出す頃、旭良がバスからあがってきて、五分丈の綿パンにTシャツ姿でごしごしと頭をタオルで拭きながらテーブルについた。
「いただきます」
二人はダイニングテーブルに向かい合って、お互い芝居がかったように丁重過ぎるほど頭を下げて、頂く。
それが、食事の時の二人の結婚した時からの儀式だった。
「美味いな。このアイスティー。かなちゃん、今夜は浮かれてるだろ」
「そう?」
「わかるよ。アイスティーでもジャムを入れる時はかなちゃんはいつもご機嫌だ」
そう何気なく言った旭良に、
「ご機嫌……?」
と、奏子はオウム返しに呟いた。
「そうかしら。それよりスコーンは?」
「そのスコーンもだよ。この焼き加減、絶品さ。かなちゃんがスコーンを焼くのはご機嫌な時か落ち込んでる時だけど、今日はご機嫌だろ。何かあった?」
「うーん。夕食前に観たビデオ、先週の『クラシック音楽館』の指揮がブロムシュテットでね。曲が『牧神』(※)だったの。ラストがすっごく官能的で感動したわ」
(※ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』)
旭良は奏子のその言葉を軽く受け流した。奏子のそういう音楽の話は、いつもと変わらない日常の一部だからだ。
しかしその時。奏子は自分の心模様を見つめていた。
私が今日、ご機嫌なのは……。とくんと奏子の胸が鳴る。
それは──────
奏子は、涼やかな瞳をしていた彼との今日の『出逢い』を心の片隅で反芻していた。
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