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駅やスーパー、コンビニにも徒歩圏内にあり、職場からも近い。日当たりもいいし、部屋の広さも申し分ない。という理由で、男はその部屋を借りることにした。相場より少し安い気がしたが問題はないだろう。
以前住んでいたアパートは、上階の住人のたばこの不始末により全焼してしまった。老朽化の進んだ建物だったので、引っ越しを考えていた矢先のことだった。
親には実家に帰って来たらいいじゃないかと言われていたが、男は一人暮らしにこだわっていた。いや、正確に言えばこの街にこだわっていた。
引っ越してから三日が経った。朝起きて、いつものようにバターを塗ったトーストを食べる。コーヒーを二杯飲んでから洗面所に向かい身なりを整える。
このアパートに引っ越してきてから、会社にはバスで行くようになった。駐車場がないアパートだったので、それまで使っていた車は引っ越す際に売り払った。はじめは車がない生活なんて考えられなかったが、実際は別に車がなくてもあまり不便さを感じないことに気がついた。
バスに乗ること約五分。会社に着くと同僚や上司に形ばかりの挨拶をして、自分のデスクに向かいパソコンを起動させる。
いつものように仕事をして、いつものように一時間の休憩を取る。昼食は毎日社員食堂だ。料理は作れないし、だからといって昼からコンビニのカップ麺を食べる気にはなれなかった。何しろ夜ご飯の予定がカップ麺と決まっているからだ。
この会社の社員食堂は美味しいと評判で、とくにカツ丼や和定食といった定番メニューが人気だった。男はカツ丼を注文し、一人でカウンター席に座った。
「西田」
名前を呼ばれて振り返ると、カツ丼とサラダをトレーに乗せた同僚の徳沢が背後に立っており、そのまま勝手に隣の席に座った。
「お前、引っ越したんだって?」
「ああ」
「どこだ?」
「第一東駅の近くだ」
「第一東駅……それってもしかして岸話荘ってアパートか?」
「よくわかったな」
駅名を言っただけでアパートを言い当てられるとは思いもしなかった。それほど有名なアパートなのだろうか。入居した西田の感想としては、立地が良いわりに家賃が安いこと以外、どこにでもあるアパートというくらいだった。
「そのアパートなんだけど」
徳沢は突然あからさまに周囲を見回すと、西田にだけ聞こえるほどの小声で話をはじめた。
「実は、そのアパートにはある噂があるんだ」
「噂?」
「そうだ。岸話荘の102号室のベランダで、流れ星に願いを唱えると、叶うっていう噂があるんだよ」
「は?」
あまりに素っ頓狂な話に、西田は思わず普段は決して出さないような間の抜けた声を出してしまった。
「いや、だから。その102号室のベランダで、夜空を見上げるだろ? で、運良く流れ星が見えるとする。そこで願いごとを唱えると本当に叶うっていうことらしい」
「徳沢、お前、昨日徹夜だったのか?」
「違う違う。別に頭がおかしくなってこんなこと言ってるんじゃない。本当にそういう噂があるんだ。で、お前何号室?」
「102」
「本当かよ! じゃあ、ちょうどいい。今日やってみろよ」
「いや、そんなに見れるもんじゃないだろ。流れ星って」
「ああ。しかも流れ星が見えてから消えるまでに三回唱える必要があるからな。これが結構難しいもんだ」
徳沢は西田の話を聞いていないようだった。それどころか噂の部屋に同僚が住んでいると知って、かなり興奮しているらしかった。四十歳にもなって流れ星の力で願いが叶うと本当に信じているのだろうか。はじめて同い年の男の頭を心配した。
「信じるも信じないもお前次第だけどな」
「でも、たとえ本当にそんなにすごい噂があるとしてだ。それにしては家賃が相場より安い気がするんだ。立地も良いのに」
「そりゃ、あくまで噂だからな。大家が気にしていないか、あるいはこれも噂だが、その願いを叶えてくれるのは、部屋に住み着いてる幽霊だって話もある。噂を聞いた人間は、幽霊がいるなら住みたくないと思うだろう」
「あそこは事故物件じゃないぞ」
「事故物件だからって必ず幽霊がいるわけじゃないだろ。逆もまた然りだ」
どこをとっても根拠のない話だった。引っ越してきて数日になるが、幽霊がいる気配を感じたことは一度もない。それは霊感がないからだろうと言われればそうなのだろうが、西田はどうも霊のような目に見えないものは信じることができないタチだった。
「まあ、いいさ。願いごとをするかどうかは、住んだやつが決めることだしな」
それはそうだと思い、西田は冷めきったカツ丼をようやく一口食べた。
帰宅してからはいつものようにカップ麺にお湯を注ぎ、一緒に買ってきた唐揚げと白ごはんを食べる。はじめは美味しいと思っていたが、毎日ともなると美味しいともまずいとも思わなくなっていた。
食事のあと、テレビを流したまま本棚に飾っている写真を手に取った。黒い髪を器用にくるくると巻いた、目の大きな可愛らしい女性の写真だ。西田はそれを眺めているうちに、徳沢の言葉を思い出した。
そこからはほとんど衝動的に体が動いた。西田は写真を持ったままアパートのベランダに出て、夜空を見上げた。星がいくつか輝いているだけのいつもの夜空だったが、じっと目を凝らしていると、ほんの一瞬、流れ星が見えた。
はっとして、西田は考えるよりも先に、心の中で願いごとを三回唱えた。流れ星はすぐに消えてしまうので、うまくできたかはわからなかったし、何より唱えたあとで急に恥ずかしさがこみ上げてきた。自分は一体何をしているのだろう。流れ星に願いを唱えるなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。西田は念のため両隣のベランダに人がいないことを確認してから慌てて室内に戻り、写真を本棚の上に戻してから風呂に入った。
翌朝起きてすぐ、西田は部屋中を確認した。流れ星に願いを唱えたところで叶うはずがないと頭ではわかっているのに、どうしても気になっていたのだ。朝起きたら何か異変があるのではないかと。願いが叶っているのではないかと。しかし、残念ながらいつも通りの朝だった。
強いていうならやけに肩が重かったので、一瞬、本当に幽霊がこの部屋にいるのではないかと思ったが、どう考えても急な引っ越しで買い直した敷布団と枕の固さや高さが、自分の体に合っていないだけだった。
結局、今日も昨日と何も変わらない生活が始まった。
それは翌日もさらに翌日も同じままで、何日経っても願いが叶ったと実感できることはなかった。同僚の馬鹿げた話を一瞬でも間に受けてしまったことの恥ずかしさがありながらも、心のどこかではまだ願いは叶うんじゃないかという淡い期待をズルズルと引きずっていた。
「よう、西田、隣いいか?」
社員食堂でカツ丼を食べているところに、トレーにオムライスとサラダが乗せた徳沢がやって来た。彼は西田の返事を待つこともなく勝手に隣の席に座った。
「あれからどうだ?」
「どうって?」
「部屋のことだよ。願いは叶ったか?」
「ああ、その話か。叶うわけないだろ」
「ってことは、願いごとはしたのか」
徳沢は嫌な笑みを浮かべながら、サラダを一口食べた。西田は言葉に詰まった。
「やっぱり噂は噂かあ」
「そういうことだ。ただの噂だ」
西田も、今度はカツ丼が冷める前に一口、また一口と食べた。
「で、何を願ったんだ?」
「……何も」
「何だよ、秘密ってことかよ」
「願いごとは人に話すと叶わなくなるって言うだろ」
「それもそうだ」
それから二人は102号室の話をやめて、会社のことや最近テレビでよく見るニュースのことを話した。会社も同じで年齢も同じであり食の好みも似ているので、気が合う二人だったが、唯一違うところといえば、徳沢は既婚者で子供がいるという点だった。
西田は結婚もしていないし、子供もいない。今後するつもりもなかった。徳沢だって、五年前までは独身だったし、当時は結婚するつもりなんて全くなかった。これが何の縁なのか、会社の取引先の女性と恋に落ち、三十五歳でめでたく結婚することになった。
結婚してからこいつは変わったと、西田は言葉にはしないものの、ずっと思っていた。何をするにも常に子供と奥さんが優先で、会社の飲み会が大好きだったのに、今や二次会に出席する確率は社内で一番低い。
そんな彼を間近で見ていると、結婚もいいかもしれないと思うことは西田にもあったが、やはり今の自分にそれができるとは思えなかった。
「あ、そうだ。お前、肉ばっか食ってないで、たまには野菜も食べろよ」
「何だよ、いきなり」
「奥さんがな、肉ばっかだと体に悪いって言うんだ」
「お前、そんなの気にするようなやつだっか?」
「いいや。子供が生まれてからだよ。少しでも長生きしないとな。人のためにならそう思えるんだ」
自分にはそう思う相手がいない。西田は言葉にはしなかったものの、心にずっと空いている穴が、一段と大きくなったような気がした。
その日は夜ご飯用にコンビニでカップ麺と一緒に、半額になっていたサラダを買ってみた。久しぶりに食べたサラダは決して美味しいとは感じなかったが、健康のために明日もサラダを買うことにした。
それは岸話荘に引っ越してきてから、半月近くが経ったころのことだった。早くも夜ご飯にサラダを食べることはなくなり、相変わらずカップ麺と唐揚げを食べる生活が続いていた。
その日は久しぶりにラーメンではなくカップうどんを買った。特にこれといった理由はないが、何となくラーメンではないものを食べたくなったのだ。
うどんと唐揚げと白ごはんと食べ終え、たまたまつけていたテレビ番組をぼうっと見ていると、スマホの着信音が鳴った。画面には母親の名前が表示されている。その名前を見た瞬間、西田は眉間にシワを寄せたが、仕方ないというふうに通話ボタンを押した。
『もしもし、一郎かい』
「うん。どうしたの」
『ちょっと心配で電話をかけたんだよ。元気にやってるかい』
「ああ、元気だよ」
『そうかい……ねえ、やっぱりうちに帰って来なさいよ。あんたもいい年して一人じゃあ寂しいだろう? うちならお父さんもいるし、毎日誰とも喋らずに家にいるのは心にも体にも悪い』
「帰らない。言っただろう。目的を果たすまでは帰らない。用件がそれだけならもう切るから」
『……いい加減にしなさい、一郎! あれから何年経ったと思ってるんだい!? もういいだろう。もう、いいじゃないか……あんたがすることじゃないよ。自分を責めるのはもうやめるんだ』
母親ははじめこそ大声で怒鳴ったが、すぐに弱々しい掠れた声に変わった。
「いい加減にするのはそっちだろ!」
珍しく西田は声を荒げだ。
「そりゃあんたらはもういいかもしれない。所詮は他人だもんな。血の繋がりなんてない、ただ同じ家にいたってだけのことかもしれない。でも俺にとっては違う。俺がやらなくちゃいけない。誰もやらないなら俺がやるしかないんだよ!」
スマホを持つ手が震えていた。
「あんたらにはわからない。俺の気持ちなんて」
電話を切ったあと、西田は久しぶりに自分が泣いていることに気がついた。悲しくて悔しくて泣いていた。ティッシュで拭いても拭いても溢れる涙を抑えることができなかった。ゴミ箱がティッシュでいっぱいになったあとは、子供のころにそうしていたように、膝を抱えて泣いた。周りに誰もいないことはわかっていたが、声だけは出さないようにして、一晩中泣き続けた。
岸話荘に引っ越して一ヶ月が経とうとしていたころのことだ。仕事帰りに偶然、高校時代の友人に会った。バス停でバスを待っていると、突然隣にいた男に声をかけられ、はじめは警戒していたが、よく見ると高校時代の友人の永原だった。
二人は偶然の再会を喜び、バスに乗るのをやめて、近くの居酒屋で飲むことにした。
永原は数日前に仕事の関係でこの街に泊りがけの出張に来ているらしかった。居酒屋に入るなり、そんなお互いの近況を報告し、ビールや焼酎を飲んだ。
「でも本当、ここで西田と会うとはな。今は一人暮らしか?」
「ああ。岸話荘ってアパートに住んでる」
「へえ。何かお前らしいな」
「そうでもないさ。何たってそのアパートの俺が住んでる部屋は、願いが叶うっていうメルヘンは噂があるからな」
「願いが叶う? 何だそれ」
「職場の同僚が言ってたんだよ。岸話荘の102号室のベランダで、流れ星に願いを唱えると本当にその願いが叶うんだと」
「そりゃ、ずいぶん可愛らしい話だな。で、お前は何を願ったんだ」
「何で俺が願ったってわかるんだよ」
「何を願ったのか、なんて聞いて悪いが、お前には叶えたい願いがある。それは昔から変わらない」
「そうだな。お前の言う通りだ」
永原は三杯目のビールを飲み干してから、慎重に言葉を選ぶようにして、西田に話を振った。
「あれから何年経った?」
その質問に、西田は本日四杯目の焼酎を一口飲んだから答えた。
「十五年だ」
「もう、そんなに経つのか」
「十五年間、必死だったよ。ただただ必死だった。で、気がつけば四十歳のおっさんになっていたってわけだ」
「結ちゃんだっけ。当時二十歳だったから、生きてりゃ今頃三十五歳か」
「生きてるさ、必ず」
「ああ、そうだな。お前がこんなに必死になって探してるんだもんな。親御さんはどうしてるんだ?」
「親なんて言っても赤の他人だからな。もう結を探すのはやめてこっちに戻れなんて言いやがる。他人だからそんなことが言えるんだ。俺にとって本当の家族は、血の繋がった家族は、結だけなんだ」
西田はグラスの中で静かに揺れる酒を見ながら、また泣きそうになった。
「お前、結ちゃんのこと大好きだったもんな」
「あいつはな、本当に良い子なんだ。俺の自慢の家族なんだ」
「お前に似てなくて、可愛い子だもんな」
「そういや、似てないってよく言われたな」
遠い昔のことを思い出すと、ふと頰が緩んで笑みがこぼれる。何年経っても、何十年経っても色褪せない記憶は、いつも西田の心を落ち着かせてくれる。しかしだからこそ、彼はこの街に固執していた。引っ越す前もそして引っ越してからも、住んでいる街は十五年間変わらない。最愛の家族が最後にいたこの街から、西田は離れることができなかった。
「また会えるといいな」
「会えるさ。この街にいる限り」
その日はいつも以上にお酒を飲んでいたせいで、帰ってからの記憶はなかったが、久しぶりに家族のことを他人に話して、幸せな気持ちになったことだけは覚えていた。
その日はまるで星が降るような夜だった。
何とか流星群が見れるのだと、職場の同僚や上司たちが話していた。特に徳沢は、今日こそ流れ星に願えば叶うのではないかと、食堂で嬉々として話していた。
しかし西田はベランダで流星群を見ても、もう何かを願うつもりはなかった。大切な家族の搜索を諦めたわけではないが、星や部屋に頼らず、自分の力で見つけようと決めていたのだ。自分の大切な人は自分の手で見つけるしかない。
それでもベランダに出たのはただの気まぐれだったのかもしれない。あるいは一度くらい流星群を見てみたかったのかもしれない。自分でもよくわからないまま、ベランダから星が降る美しい夜空を見上げた。
数えきれないほどの流れ星が見えた。想像以上の美しさに、思わず見惚れてしまった。
ーー結、お前のことは必ず俺が見つけるからな
星を見ながら最愛の家族のことを思い出した。
その瞬間、ベランダに誰かいる気がした。視線を動かすと、隣で黒髪の女性が夜空を眺めていた。つやつやとした髪の毛を器用に巻いており、横顔からでもよくわかるほど目がくりくりとしていて大きい。可愛い女性だった。
「結……なのか……」
言葉にならなかった。目の前で起きていることが、夢なのか現実なのかわからないうちに、隣の女性は静かに目を閉じた。
「これからも、あなたが幸せでありますように」
はっきりとそう聞こえた。聞き覚えのある懐かしい声が聞こえた。まぎれもく結の声だった。
「ありがとう」
今までどこにいたんだとか、心配したんだぞ、とか言いたいことはたくさんあった。けれども、今目の前で彼女が自分の幸せを願ってくれたことが嬉しくて、たくさんの言葉を飲み込んで、ようやく一言だけそう伝えることができた。
ーーああ、俺の願いは叶ったんだ。十五年間、ずっとずっと願い続けていたことが、今ようやく叶ったんだ。
涙が溢れて止まらなかった。
隣にいた彼女は、最愛の家族は、瞬きをしている間に消えてしまった。ほんの一瞬の出来事だった。
何度目を凝らしてみても、彼女はもう、どこにもいなかった。
「ありがとう、結」
西田は両手を強く握りしめて、もう一度夜空を見上げた。
そのは、いつまでも、いつまでも星が降り続いていた。
END.
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