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自宅へ帰ると、家にはあなたひとり。しんとしている。あなたが立てるささいな物音が家中にひびく。普段はありがたい広い部屋が、ひとりのときはデメリットに感じる。
「ぜいたくな悩みかしら」
買ってきた食品を冷蔵庫に詰める。あらかた片づけると、あなたはやることがなくなる。夫は仕事へ、子どもは学校へ行っている。空虚な時間がおとずれた。
今日はすこし疲れた。へんなひとに絡まれたからかもしれない。
あなたはソファに座りこむ。やわらかい感触があなたを包む。重力が軽くなった気がした。ちょっと休憩するつもりが、まぶたが重くなってくる。眠りの世界へ足から浸かっていく。一度浸かってしまうと、落ちるのははやい。
夢のなか、あの男が出てくる。
「あなたは近いうちに泣くことになる」
「そんなばかなこと、あるはずがない」
「わたしの占いは当たるのです。くわしく聞かなかったことを後悔しますよ」
「後悔などしません。わたしは人生で二回しか泣いたことがないのです。そうそう泣きませんから」
「しかし、それでも聞いたほうがいい」
夢での男は現実よりしつこかった。
「もう、うるさいわ」
うっとうしい悪夢を振り払うように、手を動かす。霧のように夢がはれて、現実の景色が戻ってきた。
「あら、いつの間に眠ったのかしら」
窓からオレンジ色の光が差しこんでいる。燃えるような濃いオレンジが、まもなく日が沈むことを告げていた。固まった体をほぐすように思いっきり伸びをする。あなたはどれくらい眠っていたか確認するため、時計を見た。
「あら」
ずいぶん寝ていたようだ。部屋にはあなたひとりきり。耳を澄ますが、自宅のすみずみまで静まりかえっている。
「おかしい」
あなたは違和感に気づく。いつもなら、とっくに子どもが帰ってきている時間だ。なのに、この部屋には子どもの気配すらない。胸の奥がざわめく。
「どうしたのかしら」
あの子はまじめな子で寄り道をすることなどない。なにかあったのかしら。あなたはどうしていいか、わからない。部屋のなかをうろうろと歩きまわる。二、三週回ったが、心は落ちつかない。何回も何回も同じところを歩く。
「どうすればいいのかしら」
あなたの頭は混乱している。なんとか答えを出そうとする。しかし、納得できる答えなど見つからない。
どれくらいふらふらしていただろうか、あなたはやっとのことで、だれかに連絡すればいいと思い立つ。すぐに電話を取る。学校へつなぐ。コール音がもどかしい。どうせひまなのだから、はやく出てちょうだい。心のなかで毒づく。
「はい、どうしました」
まぬけな声が聞こえてきた。こっちがたいへんなときにひとの気も知らないで。いらだつのを押さえて、あなたは用件を伝える。できるだけ早口でたずねる。
「あの、うちの子が帰ってこないのですけれど、学校にいませんか」
「さあ、授業も部活も終わっているので、だれも残っていないはずですが」
「それは本当ですか」
「ええ、友だちの家にでも行っているのではないですか」
「そうですかね」
「きっとそうですよ。友だちの家にいるか、聞いてみたらいいでしょう。なにかあったら、また連絡をください」
そう言って電話は切れた。あなたの手は震えている。半分は不安で、半分は怒りで。
なにかあったらって、もうなにか起こっているかもしれないのに。あの子がなんの連絡もなく、遊びに行くわけがないじゃない。なぜ、あんなにのんきなのかしら。わたしの子どもが行方不明なのよ。
ふくれあがりそうになる怒りをなんとか抑えて、あなたは友人の家へ電話をかける。心当たりがある家へ、すべてかけるのだ。なんとしても見つけなければならない。しかし、あなたの希望は打ち砕かれる。どの家へかけても、「いいえ、うちには来ていませんけど」という台詞が返ってきた。
あなたは愕然とする。足に力が入らない。立っているのが奇跡みたいだった。体中の血が全部凍りついてしまったように、なにもかもが冷えきっている。心のよりどころが見つからない。極寒の闇のなかでただただ震えている。
あなたは最後の糸として、夫に連絡を取った。夫が電話に出る。なにを言っているのか、聞き取れない。けど、あなたの口は壊れた機械みたいに子どもが帰ってこないと何度も何度も訴えていた。数回のやり取りのあと、夫が言った言葉が耳に入る。
「警察に知らせたほうがいいのではないか」
あなたはいつの間にか床へへたり込んでいる。
事件なのだ。これは事件なのだ。なにごともなく終わるなんて結末はありえない。最悪の光景が頭に浮かんでくる。子どもの死。
いいや、そんなことあってはいけないわ。あの子は帰ってくるのよ。そしたら、力いっぱい抱きしめてあげるの。
揺れる思考のなか、あの男が出てくる。
「あなたは泣くことになる」
この状況になってはじめてわかる。どんな結果になってもあなたは涙をこらえられないだろう。
どっちの理由なのかしら。こんなことなら聞いておけばよかったわ。
あなたはそんなことを思いながら、すっかり暗くなった家でうっすら笑っていた。
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