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理由
あなたは主婦。買いものを終え、自宅へ帰る途中だ。買いものといっても近所のスーパではない。家からすこしはなれたところにある自然派のお店。あなたはそのお店をいつも利用している。くわしいことはよくわからないけど、きっと体にいいにちがいないわ。そんな確信を持っている。
「ちょっと買いすぎたかしら」
荷物が腕に食いこむ。重いものを持って電車で帰るのはめんどうだ。あなたはタクシーを探す。あたりを見回していると、突然、妙な男から声をかけられた。
「あなた、近々泣くことになるようだ。気をつけたほうがいい」
「なんですか、あなた」
あなたは不機嫌な声を出す。いきなり声をかけてぶしつけなひとだわ。男を見る目は不審者を見るそれである。あなたの警戒感に気づいたのか、男が一歩下がって弁解する。
「いやいや、ちがうんです奥さん。わたしは占い師をやっていましてね。ひとの未来がちょっとだけ見えるのです。それで、つい」
「でたらめなことを言って。失礼にもほどがあります」
「いや、でたらめではないのですけどね。そうだ、その証拠を見せるためにくわしく占ってさしあげましょう。さいわいこの近くにわたしが占いをやっている店があるのです。特別にお安くしますからいかがです」
男がにたにたと笑う。下品な笑いかた。付きあいたくもない。
「どうせ、客を誘いこむための手口なのでしょう。最初に不吉なことを言って、ひとを不安にさせるつもりなんでしょうけど、わたしには通じませんよ。汚らわしい」
「そうではないのですけどね。そうまで言われると、困ったな」
男の目線が泳ぐ。あきらかに弱った様子だった。やっぱり思ったとおりだった。あなたは確信する。
そもそもあなたには、男の言葉を否定する明確な根拠があった。あなたはめったなことでは泣かない。強いひとなのだ。人生で泣いたのは二回だけ。一回目はおさないころ。父を亡くしたとき。はじめて身近な人間の死に触れた。もう会えないのだと思うと、無性に悲しくなった。自然と涙が出てきた。
「ねえ、ママ。パパにはもう会えないの」
「大丈夫よ。パパはあなたのこと見守ってくれているわ」
あなたも泣いていたし、母親も泣いていた。
父を亡くしたあなたの人生は過酷なものになるかと思われた。あなたもそう思った。しかし、あなたは強かった。父親がいなくなってしまったのは変えられない。過去を振り切ってあなたは前を向いた。未来を見て人生を歩もうと思った。
その結果、いまの夫と出会った。狙ったわけではないけれど、夫は資産家だった。生活はぐっと楽になった。あのとき下を向かなかった決断が報われた気がした。
父親もきっとよろこんでいるだろう。あなたはそう信じていた。
夫との暮らしは順風満帆。不満という不満はない。そして、あなたが人生で二回目に泣いた日を迎える。子どもの誕生だ。新しい命に触れることがこれほど感激に満ちたものだとは思わなかった。うれしさとかよろこびとか、とても言葉で表せるものではない。この世のすべてのしあわせをこの瞬間に集めたような感情。
あなたの目からは自然と涙がこぼれ落ちていた。
あなたのだいじな子ども。いまではひとりで学校に行けるまでに大きくなった。まだまだかわいい。いずれ大人になって親のもとをはなれてしまうだろうけど、それまでは精一杯の愛を注ごう。あなたはそう決意している。ふたり目の子どもはできなかったけれど、そのぶんひとりをより愛せるわ。そう考えると、よかったのかもしれない。
これが人生であなたが泣いた二回。生まれたときに泣いたぶんを含めれば三回になるのかもしれない。でも、それは泣くとは別の感情だろう。
あなたは自分がたった二回しか泣いていないのを覚えている。だから、男の言うことがでたらめだと否定できた。よっぽどのことがなければあなたは泣かないのだ。あなたが泣くとすればひとの生か死に触れたとき。そんな大事件が日常的に起こったら、たまったものではない。
「とにかく、わたしは忙しいのです。占いに付きあっているひまなどありません」
あなたが強く言い放つ。男はおどおどした態度で、「そうですか。いや、すいません。とんだ失礼をしました」と言って、逃げるように消えてしまった。
「まったく、思わぬじゃまが入ったわ」
あなたはちょうど見つけたタクシーを呼びとめ、自宅まで送ってもらった。
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