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ふとした瞬間に引き寄せられる、抱きしめられる、優しく囁かれる、こんなことを繰り返されれば、愛されていると感じても仕方がない。そして実際に、好意も告げられるのだ。
しかし、一颯はそれ以上のことをしようとはしなかった。キス一つにしても、頬や額にはしても唇を合わせることはしない。そこは美青の気持ちを優先し、自分に気持ちが向くまで待っているのだろう。
「こういうところは律儀というか……」
いっそ強引に迫られれば、流されることもできるのに。
そんな風に思ったこともある。だが、それでは意味がないことを一颯はわかっている。あくまで美青の意思が大切なのだ。それは美青にだってわかる、わかるのだが……。
一歩踏み出すことがこれほど怖いとは思ってもみなかった。一颯との関係が完全に変わってしまうことが怖い。
姉弟なら一生家族でいられる。繋がることができる。しかし男女の仲になってしまうと……。
美青はソファの上で膝を抱え、丸くなる。
「何やってんだよ」
一颯がコーヒーを二つ持ってリビングに入ってくる。コーヒーカップをテーブルに置き、美青の隣に腰かけると丸くなっている美青の身体をグイと引き寄せた。その勢いで美青は一颯の膝にコロンと寝転がる羽目になる。
「い、一颯っ」
「なんかごちゃごちゃ考えてるんだろ」
そう言って、一颯は美青の髪をゆるゆると梳く。その優しい手つきにうっとりと流されてしまいそうになる。甘えてはダメだと思うのに、遠慮なく甘やかしてくる手にあえなく陥落する。
「一颯って、厳しいのか優しいのかわからない」
「俺はいつでも優しい」
「……」
厳しいことを言ったとしても、それは優しさの裏返しなので間違ってはいない。言い方を間違えた。厳しいのか甘いのかわからない、だ。
キツイことを言ったりもするくせに、こんな風に際限なく甘やかしたりもする。上手く飴と鞭を使い分けて操られているような気さえする。このままだと、どんどん一颯に惹かれていく。引き返せないところまで行ってしまう。それが怖くてたまらないのに。
「黙るなよ」
「……そうだなって思ったから黙ったの」
「ったく」
一颯はハァ、と息を吐き出し、美青の髪をグシャグシャと撫でた。
「わぁっ」
「あんまり可愛いこと言ってると襲うぞ」
「に、逃げるし」
「逃がすか」
一颯の瞳が一瞬だけ飢えた獣のようにギラリと光る。しかしすぐに元に戻ると、美青の身体を軽々と起こし、テーブルに置いた美青のコーヒーカップを手に持たせた。
「飲め」
「うん」
ほろ苦い液体が喉を通っていく。深いコクがあるのに、後味はスッキリとしている。一颯はコーヒーにうるさいようで、高額のマシンを個人でも所有しており、それを使って淹れてくれる。そのせいで、美青の舌もすっかり肥えてしまった。
「美味しい」
「当然だ」
ふわりと表情を和らげる一颯に目が離せなくなる。そのままじっと見つめていると、一颯が少し困ったような顔で眉を顰めた。
「そんな顔で見るな。本気で襲いそうになる」
「か、顔は変えられないし」
フイと横を向いてそう言うと、手に持ったカップを取り上げられ、そのまま抱きしめられた。
「俺の理性が完全に崩壊する前に、早く俺を好きになれよ……美青」
「……」
掠れた声でそう呟く一颯に、美青の心がぎゅっと締め付けられる。
たぶん、もうとっくに好きなのだ。しかし、飛び込んでいけない。心にある恐怖心が大きく立ちはだかっている。
男女の仲には別れがある。もうあんな辛い別れは嫌だ、あんな気持ちは二度と味わいたくない。
一颯と元彼は違う。それはわかっている。それでも怖いのだ。それに、一颯には一度拒絶されている。その意味合いはまた別物だけれど。
「一颯……」
「好きだ、美青」
抱きしめる腕が強くなればなるほど、美青の心もより一層強く締め付けられていった。
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