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「美青さん、今日時間あるかな?」
小畑に書類を届け、美青が背を向けた瞬間にそんな声が聞こえた。
美青は目を丸くしながら恐る恐る振り返る。小畑はいつものように穏やかに笑っている。
「え? あの……」
「今日、一颯は遅くなるでしょ?」
「はい、どうして……」
今朝、一颯からは帰りが遅くなると聞かされていた。わざわざそう言われるということは、相当遅くなるということだ。夕飯はもちろんだが、帰りを待たなくていい、先に寝ていろ、という意味でもある。
「一颯、今日は得意先で接待って言ってたから。一颯の帰りが遅い時って、美青さんは一人でご飯食べてるんでしょ?」
「はい」
「僕、今日は早上がりできそうでさ。一人で夕飯も味気ないから、付き合ってもらえたらと思って」
ニコニコニコ。少々訝しんでしまうほど満面の笑みだ。
小畑は谷山の言うとおり、笑顔の裏で何を考えているのかわからないところがある。美青相手に悪巧みをしているとは思えないが、何となく警戒してしまう。
「……ダメかな?」
今度は一転してしゅんと項垂れる。それがまるで子犬のように見えた。大の大人を捕まえて子犬もなにもあったものではないが、そう見えたのだからしょうがない。
「い、いえ! 私でよければぜひ」
「ほんと!?」
ニッコリ。
パァッと花開くような笑みを浮かべると、小畑はPCに向かって早速店を調べ始める。
「美青さん、何が好き?」
「え、あの、何が好きかっていうと……」
「嫌いなものある?」
「嫌い? えっと、あまり辛すぎるものは苦手……」
「お酒は好き?」
「好きですが、あまり飲みすぎないようにって一颯に……」
「あぁ、釘刺されてるんだね。誰かにお持ち帰りでもされたら大変だもんね。あ、それって僕かぁ!」
あはははは、と笑いながら手は忙しく動かしている。妙に明るすぎる小畑に首を傾げつつも、次々に繰り出される質問に答えようとしているうちに、そんな違和感は気にならなくなった。というか、気にしている場合ではなかったといった方が正しい。それほどまでに矢継ぎ早にあれこれと聞かれたのだ。
「よし! やっぱり肉! 肉だよね! シュラスコなんてどう?」
小畑にしては珍しいチョイスな気がする。どちらかといえば一颯っぽい。だが、シュラスコ料理は美青も久しぶりだし、目の前で肉を切り分けてくれるのが楽しくて好きだ。
「いいですね。好きですよ」
「やった! じゃ、定時で退社、その後駅で待ち合わせね。それとも、会社から一緒に行く?」
「い、いえ! 待ち合わせで」
「うん。じゃあそうしよう」
会社から一緒になど恐ろしすぎる。あまりに目立ちすぎて、明日どんな噂が飛び交うやらわからない。小畑と二人など普通ならありえない組み合わせだ。ありえなすぎて逆に大丈夫な気もするが、変に憶測などされたくない。
そんなことを考えながら自席に戻る途中、ふと気付く。
「一颯に言った方がいいのかな……」
しかしすぐに思い直した。
「子どもじゃないんだし、いちいち報告するのも変だよね」
知らない相手ならともかく、小畑なのだ。心配させるような相手ではない。そう思うと現金なもので、夕食が楽しみになってくる。
「お昼、食べ過ぎないようにしなきゃ」
美青はシュラスコを楽しみに、今日やるべき仕事をテキパキと片付けていった。
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