因果

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因果

 あなたが、正しいことを言ったとしよう。  それがどんなに真っ当な意見であっても、権力者の一言で形勢は逆転する。正しいか正しくないかではない。最終的に勝ったほうが正義なのだ。    その男にとって、権力に意見がねじ伏せられるのは日常だった。そういうものだと思って育った。    いつものように、仕事帰りに坂下駅前の居酒屋で瓶ビールを1本注文し、お通しをつまみに()んでいた。最近はまっすぐ家に帰らないサラリーマンを揶揄(やゆ)する造語が流行り、仕事帰りに一人居酒屋へ立ち寄るのも気が引けた。  最後の1杯を瓶ビールから手酌で注いで一気に喉に流し込み、さて帰ろうかと腰をあげたとき、斜め前に座っている若い男女が自分の悪口を言っているのに気がついた。 「ほんと、おじさんキモい。」   「上司にペコペコしてそう。」「頭が薄くなったら潔く丸坊主にしろ。」「作業着のまま呑みに来んな。」「あれは奥さんの尻に敷かれている顔。」勝手なことを言ってケラケラ笑っている。彼らは、誰かの悪口をつまみに酒を呑んで憂さを晴らしているのだ。 (お前らに何がわかる!!!!)    堪忍袋は、だれが破裂させるかわからない。それは見知らぬ人の一言かもしれない。  男は支払いを済ませ、家とは反対側へ向かって歩いた。  民家の駐車スペースに置きっぱなしにされた錆びた釘抜(くぎぬ)きバールを掴むと、コンビニで買った小瓶のウィスキーを呑みながら飛島(とびしま)神社へ向かった。歩きながらの酒は酔いがまわる。途中、男は点在している石仏や遺跡にバールを振り下ろし傷をつけて歩いた。 「神も仏もあるもんか!!!」  目的の飛島神社に着くと、人目につかない裏手にまわり、しめ縄の張られた巨石に思い切りバールを振り下ろした。  飛島家の権威全てに傷をつけてやりたかったが、わずかに残る理性で踏みとどまっていた。傷はつけてやりたいが、捕まるつもりもなかった。  桜が咲くにはまだ早く肌寒さに外を出歩く人もいない。月は雲に隠れ、誰にも見つからずに悪事をやってのけた。  男は爽快感にはしゃぎながら、飛島神社裏の石階段を駆け降りた。  古く傾いた石段は夜露に濡れて滑りやすくなっていた。足を滑らせ腰を強打すると同時にバールを放りあげてしまった。  男は焦って草をかきわけバールを探したが見つからない。酔いもあって気が大きくなっていた。探すのをあっさり諦めて山を降りた。  この後、雨が数時間降ったこともあり、草をかき分けた痕跡や証拠のバールは見つかることなく忘れさられることになる。  男は晴れ晴れとした気分で鼻歌を歌いながら家へと向かった。 ーー木の上では、一羽の(カラス)が、その一部始終を見ていた。男の背中を見送ると、サーっと滑るように山沿いに降下し、どこかを目指し暗闇の中へと消え去った。
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