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10
きゃああと甲高い声で叫ぶボーイたち。
新が弘海に会いに来てから1週間。店の奥で開店準備をしていた弘海は、叫び声を聞いて店とバックヤードをつなぐドアを開けた。
「ママ!」
ボーイのひとりが悲鳴を上げた。
今日の出勤は2人で、華奢な方のボーイが例のチンピラたちに髪を掴まれていた。半泣きでなんとか逃げてきたもうひとりをバックヤードに匿うと、弘海はボーイの髪を掴んでいるチンピラにまっすぐ向かっていった。
弘海の手がチンピラの背後から伸び、むんずと頭を掴むと勢いよく後ろに引っ張った。
いきなり首が90度後ろに引き倒されたチンピラは驚いてボーイを離した。その隙にボーイをバックヤードに走らせ、弘海は追いかけようとしたチンピラの前に立ちはだかった。
「てめえ!」
びゅん、と飛んできたチンピラの右手をかわし、弘海はそばにあった丸椅子を持ち上げて、思い切り振り下ろした。
ごっ、と鈍い音がして頭を抱えてうめき声を上げるチンピラの向こうから、もうひとりがギラついた目で近づいてくる。
よく見れば今日はチンピラの数が多い。それぞれが手にぶっそうな金属バットやら竹刀やらを持っている。
どうやら本気でここを襲撃しに来たようだった。
弘海は深見の姿を探した。おそらく真打ち登場とばかりに最後に出てくるのだろうと思われ、まだ姿はない。
バットでガラステーブルを割る音が響く。
弘海の頭に一気に血が上った。
目の前に接近した男の股間を膝で蹴り上げると、弘海はその手からバットを奪い取った。
備品を壊して回る男に近づくと、大きく振りかぶって背後から背中に向かって渾身の一撃を食らわせた。ぐふっ、と言いながら男は自分の壊したテーブルの破片の上に前のめりに倒れていった。
それでも多勢に無勢、さっきまでうなっていた男がゆらりと近づいて来た。
今度は避けきれずに、弘海の身体に衝撃が走る。
どこを殴られたのかも解らず、弘海は全身を襲う激痛で床に崩れ落ちた。
気を失いかけていた弘海の耳に、放っておけ、という声と、物をたたき壊す音が聞こえていた。
と、目がかすんであたりが暗くなりはじめた弘海の視界は、深見の冷酷な顔で一杯になった。
「威勢がいいな……まあ、よく頑張ったんじゃないか?皆川さんよ」
唇の端をつり上げ、くく、と笑った深見は大きな手で弘海の顎を掴んだ。
動けない弘海は深見に再びキスをされ、舌を入れられた。
「……っ痛っ…」
口の中を舐め回す深見の舌を、弘海は噛んだ。声にならない声を上げて深見は弘海から離れた。
ぼたぼたと流れ落ちる血を驚きの表情で見下ろした深見は、怒りに満ちた瞳で弘海をねめつけた。深見の血が弘海のTシャツの上に滴り落ちている。
首の付け根に深見の靴の裏を押しつけられ、朦朧とした弘海は抵抗を諦めた。
相変わらず、物が壊れる音だけが耳に響く。
理玖に譲ってもらった店。
当時からの年輩の常連客たち。仲間を探しているうちに行き着いた、まだ若いゲイの客も多い。店は社交場でもあった。弘海自身、理玖が経営していたころ、ここで恋人も友人も出来た。弘海を慕って働くボーイたちも、放り出されてしまう。
そして何よりここは、世界でただひとり弘海が愛した男との想い出の場所。
もう会うことがなくても、不意にここの酒が懐かしくなって足を運んだとき、店が無くなっていたら。
「史………」
無意識に弘海はつぶやいた。
「深見さん!若頭が…っ…ぐっ…」
店の外からあわてて飛び込んできたチンピラのひとりは、最後まで言えずにその場に崩折れた。
店の中にいたヤクザが一斉に入り口に視線を集中させた。
「……遅いじゃないですか、兄さん」
深見は口をスーツから取り出した不似合いな白いハンカチで覆って立ち上がった。
兄さん、と呼ばれたのは、いかにも極道という三つ揃いのスーツと、撫でつけた髪に透け感のあるサングラスをした新だった。足下に倒れたチンピラを跨いで、ゆっくり深見に近づきながら言った。
「兄さんじゃねえ。俺はもう抜けた」
「そんな出で立ちで…説得力ないですよ。どうです、戻る気になりましたか?」
「俺は戻らん。それより…これは親父の指示か」
「……何がなんでも連れ戻せ、と」
「だったら俺だけでええやろうが。…これはおまえの一存か」
「ええ。気に入りましたか」
深見は両手を広げて見せた。ふっと新は笑った。そして身構える間も与えずに、深見の首を片手で絞め上げた。
「気に入らねえな」
ぎりぎりと絞める新の手を深見は両手で剥がそうとした。が、どうにも外れず、周りを囲むチンピラたちもじりじりとするだけで手を出せないでいた。
「てめえ、それでも極道か…?カタギに迷惑かけんなって親父に教わらんかったんか?」
「…はな…せっ…」
「俺はなあ…おまえにはわからんだろうが……組、辞めてでも守りたい相手が出来たんや…それを勝手にこんなにしよって、覚悟はできとんのかいな……ああ?」
(青戸……?)
いつもと違う様子の新を、倒れたまま放って置かれている弘海はぼんやりと見ていた。要するにヤクザ同士の諍いに巻き込まれたのか。
とうとう新の手を剥がした深見は、テレビでよく見る、「やっちまえ」的な言葉を叫んで、それを合図にチンピラたちが一斉に新に飛びかかった。
かすむ視界の中、弘海は新がチンピラたちを次々にのしていくのを見ていた。
ちぎっては投げちぎっては投げ、それは鮮やかに新は何人もの雑魚を殴り倒していく。ついに深見までたどり着いた時、新の手はぴたりと止まった。
「…兄さん、ここまでですよ」
深見はかろうじて意識のある弘海の髪を掴み、顔を上げさせた。
どこから出したのか、深見の手にはカッターナイフ。しかしそれを首もとにつけるではなく、深見は弘海の長いシルバーの髪に近づけた。
新は極道らしくドスの効いた声で言った。
「深見……やめろ」
「こいつを巻き込んだのは兄さんでしょう。まさか男に行くとは思いませんでしたよ…確かに色っぽいですがね、つくものついてんじゃないんですか」
「…黙れ」
明らかに激昂しているのを抑えた新の声は、周りのチンピラが凍り付くほどに怒気が含まれていた。
カッターナイフの刃が、弘海の髪を切った。
ぱらぱらと弘海の顔の上に、切られて短くなったシルバーの毛先が落ちる。
「次は顔ですよ」
深見の言葉が切れた瞬間、獣の咆哮のような声を上げて新は深見に飛びかかった。
深見の持っていたカッターナイフが新の頬を切り裂いたが、新は止まらなかった。
弘海に背を向けた状態で深見を殴り続け、もう抵抗も出来なくなってもそれは続いた。
チンピラたちが必死で新を止め、ぼろぼろの深見を引きずって出て行ってやっと、店は静かになった。
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