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もともとはテーブルだったガラスの破片と、足と座面が外れてしまった椅子。古い木製のドアは一枚板で頑丈だったので無事だった。 カウンターにはひび、グラスやボトルはカウンターの内側ですべて粉々になっていた。ご丁寧に壁に埋め込まれたモニターまで割られている。 その残骸のあちこちに、何人もの血が落ちて、まるで殺人現場のようだった。 深見(ふかみ)とその部下たちが這々の体で出て行ったあとには、床に倒れた弘海(ひろみ)と、手を赤く腫らし、頬の切り傷から未だ血が止まらない(しん)だけが残った。 自分では動けない弘海を、新は無言で抱き上げ、ソファに運んだ。 座面に散らかったガラスの破片を自分のジャケットで払い落とし、まるで王子が姫を横たわらせるような丁寧な手つきでそこに寝かせた。 「……申し訳なかった」 新はソファの傍らに膝を付き、一言だけ言った。 いつもの関西弁ではなかった。 弘海はただ天井を見つめていた。 「店の損害は…すべて俺が引き受ける。ボーイの子たちの当面の生活費も出す。もちろん、弘海の怪我も…」 弘海ちゃん、とは言わなかった。 「どうして、その格好で来た」 天井を見たまま、弘海は独り言のように言った。新は横たわった弘海の顔を見下ろしていたが、苦しそうに横を向いた。 「…深見が勝手なことをしていると想像がついた…構成員相手なら、この格好の方が威圧出来るからな……それに」 もう一度弘海の目を見ると、悲しげな笑顔で新は言った。 「弘海を、あきらめられると思った。俺が本気であいつらとやりあう姿を見られたら、今度こそ会えなくなるだろうと…」 「……極端だな」 「そう…だな…でも、そうでもしなきゃ……俺はあきらめが悪いんだ」 弘海はソファの背を使って、上半身を起こした。 照明器具が無事だったので助かった。改めて、ひどい有様に言葉が出ない弘海に、もう一度新は深く頭を下げた。 「本当に…申し訳ない。俺の…俺のせいだ」 「……抜けたんだろ」 「俺の油断がこれを引き起こした……辞めて、縁が切れたらそれで終わりだと思った俺が甘かったんだ」 「俺にはそっちの世界のことはわからない。ただ、あの深見ってやつが勝手にやったことだってのは…わかった」 「……たとえそうでも、結果これじゃあな……店をなんとしても守りたかったんだが…守るどころか最悪の状態にしちまった…」 新はまだなんとか形状を保っている椅子を引き寄せ、腰を下ろした。視線が同じ高さになる。 「許してくれとは言わない。ただ、この店を作り直すまでは関わらせて欲しい。店が元通りになったら…もう二度と弘海の前には…現れないから」 弘海は答えず、髪を掻きあげた。 深見に切られた部分が中途半端に指からこぼれ落ちる。 「髪……」 心配そうな新に、弘海は抑揚のない声で言った。 「気に入ってたのに……あの野郎、変なとこで切りやがって…」 「…すまない」 「あんたに言ってるんじゃない。謝られると余計に腹が立つ」 「……」 情けない顔をした新に向かって、弘海は急に声を張った。 「あー、もう!さっきから辛気くさいんだよ!」 「え…?」 「わかったって!いろいろ誤解だったのも全部わかった!ウザいからもうメソメソすんな!」 新は椅子から腰を浮かせ、中腰のまま信じられないという顔で弘海を見た。 「元ヤクザがいつまでもクヨクヨしてんじゃねえ!俺だって水商売やってると、いろいろあんだよ……このくらいなんでもねえわ!」 「弘海…」 「若い頃、ヤクザの情夫(いろ)だったこともあるからな」 「えっ」 「だから…もういいって言ってんだよ!」 弘海はソファから立ち上がった。そして足下のガラス片をざりっと蹴飛ばすと、新に向かって言った。 「掃除」 「え?」 「ここの掃除!手伝え!」 「は、はいっ!」 床中に散らばったゴミを全部掃き、壊れた椅子やテーブルの足をゴミ袋に入れ終わると、店の中はがらんとして何も無くなった。 腰に手を当てて、弘海は大きくため息をついて言った。 「…それにしても…派手にやってくれたもんだな」 「………」 「おい」 「はいっ」 「ちょっと、こっち来い」 背中を丸めて箒を動かしていた新は、尻尾を巻き込んで弘海に近づいた。 「ああ…こりゃ、けっこうざっくりいってんな」 「いだだだだっ」 新の左頬、深見のカッターナイフの傷に貼った絆創膏は、にじみ出した血で真っ赤に染まっていた。それを弘海は遠慮なくべりっと剥がし、新しいものに素早く貼り替えた。 「病院行った方がいいな。化膿するぞ」 「たいしたこと…」 「カタギが顔に傷あっていいのかよ。ヤクザに逆戻りだぞ」 「………」 「ま、別にどっちでもいいけど」 「優しいんだな」 「…どこが?」 新は愛想のいい、いつもの新に戻ったように笑った。 「俺はずっと、弘海は優しくて面倒見がよくて…人の痛みが解る男だと思ってる」 「………」 「だから惚れたんだ」 新は弘海に一目惚れをした。 最初はどちらも男であることで悩み、気のせいだと自分に言い聞かせたが、その想いは日に日に募りどうにもならなくなって、とうとう新は開き直った。 そして自分の気持ちに正直になることに慣れた頃、弘海の傍らには、ひとりの青年の存在があった。 とても水商売に向いているとは思えない、透明感のあるその青年は、弘海と恋をしていた。 「弘海……ずいぶん前のことになるけど、俺、一回だけあの子に接客してもらったことがある」 新は当時、お互いを目で追って愛を確認しあう、弘海と恋人の青年をよく見ていた。 彼は、(ちかし)という名だった。 新は史に尋ねたことがあった。                           ☆ 『好きなんやな』 『え?』 『弘海ママとつき合うとるん?』 『……はい。つき合ってるっていうより…世話してもらってる感じですけど、俺はそう思ってます』 『ママはいつも君のこと見とるよ。かわいいから心配なんやな、変な虫つきそうやもん』 『見て…ますか?俺を?』 『気づいてへんの?』 『弘海は自分の考えてることあまり言わないので…もしかしたら迷惑かと思ってました』 弘海の恋人の史は客として店に来ていたが、何がどうなったのかいつのまにかバーテンになった。史にアプローチをかけていた男たちが、急に弘海の監視下におかれたことで密かに文句を言っていたのを新は知っていた。 ほんの少しの期間ボーイも兼任したが、それは史が辞める直前の数ヶ月だけだったと新は記憶している。 誰の目にも、当時のふたりは相思相愛に映った。 『どこからどう見ても、ママは史くんにぞっこんだと思うよ』 『……青戸さんも、弘海が好きですよね』
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