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「ねえ、弘海ちゃ~ん」
「……その、ちゃんづけやめてくれる?」
「え、じゃあ、呼び捨てしてええの?やった、恋人同士みたいやん!」
「誰が呼び捨てにしていいって言った?!」
カウンターにドン、と置いたグラスから、ビールの泡がこぼれる。
それを乱暴に拭き取り、背中を向けた弘海の腕を新が掴んだ。
「ちょっと、離してよっ」
「え~、おしゃべりしようや、弘海」
「だから呼び捨てんなっつってんの!」
何度も同じような会話が繰り返される。新は手を離すそぶりはなく、弘海はため息をついて諦めた。
「わかったわよ…痛いから離してちょうだい」
新はいきなりぱっと手を離し、弘海はその勢いでふらついた。にやけ顔の新に見つめられながら、壁にもたれて煙草に火をつける。
満面の笑みで新は、今日何度目かになる台詞を吐いた。
「で、考えてくれた?俺とつき合うてくれる?」
「……話聞いてた?丁重にお断りしたはずだけど」
「一回断られたくらいで諦めたりせえへんよ。な、お試しで一回デートしてみようや、きっと楽しいで」
「……何回言われたって同じよ。興味ないって言ってるでしょ」
「つき合ってみたら興味わくかもしれへんやん。俺、絶対弘海ちゃんのこと幸せにする自信あるんやけどなあ…」
「どっから沸いてくんのよ、その自信……」
「だって俺、ずっと見てたから。俺より弘海ちゃん好きな奴おらへんと思うよ」
その言葉に、弘海の顔が曇る。
「…は?何言ってんの?」
新は笑顔で首を傾げた。弘海はふいと背を向けた。
「……そんなことあんたにわかるわけないでしょ」
「あ……そか」
妙に納得した顔で、新はポンと手を打った。
「せやったせやった、ごめん」
弘海は眉間に皺を深く寄せて、新を睨んだ。しかし新はあっけらかんと言い放った。
「別れたばっかりやもんね?」
ひとつ向こうの席で飲んでいた常連客が、口に手を当てて絶句した。
ばしゃん、と勢いよくビールのシャワーが新の頭から降り注いだ。
シュワシュワ音を立てて髪からビールが滴り落ちる。
驚いて見上げた新の目に映ったのは、とりつく島もない冷たい顔をした弘海と、空のビールグラス。
「…出口はあちらよ、青戸さん」
「ひろ…」
「二度と来ないで」
弘海はバックヤードに姿を消した。奥でバタンとドアが閉まる音がする。
ボーイの一人が苦笑いをしながら、新にタオルを差し出した。
「ああ、おおきに。…やっぱまだあかんかったか…」
呟いた新に、奥のボックス席で飲んでいた男が近づいてきた。
「えっと、青戸さん、でしたっけ?」
「はい?」
「俺、弘海の友達なんすけど……」
少し離れた席で一人で飲んでいた樹は、びしょ濡れの新に声をかけた。新は嬉しそうに笑い、ずいっと樹に顔を近づけた。
「ほんまに?やったらちょっと話せる?」
「え、ええ…」
話しかけたのは樹のほうだったのだが、新はぐいぐいとテーブル席に樹を引っ張って行った。
「それじゃあ…ずっと見てたっていうのは本当なんですね」
「ほんまやって。むこうは気づいてへんけど…もうそろ1年になるんちゃうかな」
「気づいてないっていうか…別人だと思われてませんか?」
「えっ」
「弘海、客の顔忘れるような奴じゃないですよ。一回、前みたいな格好で来てみたらどうなんすか」
「……それはあんまり気がすすまんなあ…」
「何でですか?」
「んー…、猫被っとったから」
「猫?」
新は笑って頭をかいた。
そして、カウンターに弘海がいないのを確認してから、ぽつりと言った。
「同業者だったんよ。この間まで」
新は、大阪に本社を持つ企業の社長だった。主に夜の店を多く営んでいる。
弘海が先代ママから受け継いだこの店は立地がよく、買収して自分の経営する女性従業員が働く店に作り替えようと思っていた。
ところが。
「老舗のゲイバーだって聞いて、それこそ最初は冷やかしに来てみたわけ。それが…うっかり美人ママに一目惚れしちゃったんよねえ」
「…じゃあ、さっきノンケを知らない振りしたのは、わざと?」
「一応言葉の意味は知っとるよ。俺はおもくそストレートなんやけど……好きになってもうたらしゃあないやん?俺もようわからんのやけど、とにかく惹きつけられるっちゅうか……どうしたらええんかな?」
「それは…俺に聞かれても困るんですけど」
「はは、せやなあ」
「それで、この店の買収ってどうなったんですか」
「あ、そうそう、それな。一目惚れしちゃったもんだから、この店潰したくなくなっちゃって……、やめたんよ、仕事」
「ええっ!」
「まあ、不動産ぎょうさん持ってるんで食うには困らんし…それより、この店無くなったら、弘海ちゃんに会えへんようになるやんか。そっちのほうが嫌やもん、俺」
「……仕事やめるほど、弘海が好きなんですね」
「最初はな、顔が好みだったんや」
弘海は店でオネエ言葉を遣うが、見た目は男。シルバーに染めた長い髪と黒い服がトレードマークで、モデル並のスタイルと日本人離れしたくっきりとした目鼻立ち。この界隈では有名な「美魔女」だった。
「もちろん男って最初からわかってんで?でも、どうしようもないもんなんやなあ……あかんと思えば思うほど、のめり込んでもうて…」
新は、弘海の接客を見ていて、その人となり、面倒見の良さに触れ、どんどん好きになってしまったのだと熱っぽく語った。
樹は、うんうんとうなづきながら聞いていたが、あることに気づいた。
「青戸さん…1年前からってことは…弘海が別れたことも…」
「ああ……さっきそれ言うて怒らせてもうた。…知ってる。一部始終見とったからな」
終始明るい調子で話していた新が、初めて悲しそうにうつむいた。
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