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8
急に店を臨時休業した翌月曜日。
弘海はいつもの時間に店を開けた。可愛い顔をしたボーイが早速やってきた客に愛想を振りまく。
グラスを磨きながら煙草を咥え、注文の入った酒を作る。
今日も黒いTシャツと黒のデニム。シルバーの長い髪は後ろでひとつに束ねている。
常連客がドアベルを鳴らして入ってくる。カウンターに座った客と世間話をしながら、素早くつまみを作って出す。
いつもの弘海の日常だった。
その時までは。
がらんがらん、と乱暴にドアが開いた。
店中の人間が一斉に入り口を見た。そこにいたのは、いつぞやのチンピラ二人組。プラス、その後に仕立てのいいスーツを着た体格のいい男が立っていた。
わかりやすく格の低い二人のチンピラを押しのけ、スーツの男がカウンターに向かって歩いてくる。
常連客がおびえた表情で席を立ち、ボックス席に避難した。
「皆川弘海さん?」
スーツの男は穏やかな笑顔を浮かべて弘海のフルネームを呼んだ。
弘海は返事をせずに、後ろでにやつくチンピラ二人を一瞥した。
「ああ…先日はすいませんね、こいつらがいきなり失礼したようで」
男は胸ポケットから名刺を取り出し、カウンターに滑らせた。
「深見といいます」
名刺にはスカイドア・コーポレーション専務という肩書きが印刷されている。いわゆるヤクザのフロント企業だ。
深見はチンピラを手振りで追い払うとカウンターに腰を下ろした。
弘海はボーイに目配せをして、客たちを店の外に連れ出させた。客のいなくなったボックス席にチンピラたちは偉そうにふんぞり返っている。
「…立ち退けっていうならお断りよ」
「これは話が早い…助かります」
「あいつはどうしたの。自分でカタをつけに来たらどうなのよ」
「青戸ですか」
「そうよ。ここあいつの土地なんでしょ」
「…ええ」
おかしな間があったのを弘海は気づいた。深見は口の端だけを持ち上げて笑った。
「青戸が入れあげていると聞いたので見に来てみたんですが…確かにそこらの女より色っぽい」
「あ?」
女、の言葉に弘海の語気が荒くなる。
「どうせオカマだのホモだの馬鹿にしに来たんでしょ。そんなの慣れっこよ。…で?わざわざ専務さんが説得に来たってわけ?」
「まあそういうことです。書類は見ていただきましたか」
「見たわ。あいつにも言ったけど、そっちが本気ならこっちも出るとこ出るわよ」
「…大丈夫ですか?そんな強気に出て」
「職業柄顔は広いのよ。あんたたちみたいな人種に対応出来る弁護士だって知ってるわ」
「そうですか…それなら安心しました」
「…え?」
深見は立ち上がった。そして弘海の束ねた髪の先をぐいっと引っ張り顔を近づけた。
「じゃあ遠慮なく揺さぶらせていただきますよ。ここはうちのシマの中でも最大級の店を作る予定なんです。なんなら…開店の暁にはボーイとして雇って差し上げてもかまいませんよ」
「……おととい来やがれ」
ふっと笑って深見はさらに髪を引き、弘海の唇を奪った。
一瞬の間があって、弘海は深見の頬をひっぱたいた。ボックス席のチンピラたちがてめえこら、と言いながら立ち上がりずかずかと寄ってくる。
それを片手で制して、深見は自分の頬を撫でた。
「この礼はまたゆっくりさせてもらいます」
慇懃無礼に言い放ち、深見は弘海に背を向けた。チンピラがしゃがれた声で汚い言葉を吐きつつその後をついて出て行く。
ばたん、と音を立ててドアが閉まると、弘海は壁に背中をもたれかけて大きく息を吐いた。
深見に掴まれた髪を一度解いて、舌打ちしながら結び直す。
ついでにグラスに水を汲んで一息に飲み干した。唇を噛み切ってやればよかったとひとり思う。
「…ったく…なんでこんなことに…」
以前のオーナー理玖は弘海の恩人だった。
ボーイとしては問題児だった弘海を育て可愛がり、この店のすべてを譲った。母親の介護のため田舎にもどり、今は水商売とは無縁な暮らしをしている。
調べたところ店を譲られた当時、確かに土地の権利は理玖のものだった。
それがどういう理由でこうなってしまったのかは、まだ調査中だった。
しかし弘海にとってその理由はどうでもよく、腹立たしいのは「青戸 新」という男が正体を偽って近づいてきたことだった。
(青戸……!)
弘海は一度だけ壁を拳で強く打った。
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