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それからの日々は、まるでドラマのようにわかりやすい嫌がらせが続いた。 「しかしあいつらも毎日懲りねえな…」 店の外壁いっぱいに貼られた誹謗中傷のビラ。弘海(ひろみ)は慣れた手つきで次々と剥がし、特大のゴミ袋に放り込んだ。入り口に散らかった煙草の吸い殻はチンピラたちのものか。それもかき集めて辺りに塩を撒く。 すっかり日課になってしまったルーティーンを手早くすませて弘海は今夜も定時に店を開けた。 嫌がらせが始まった頃こそ減った客も、理解のある常連客の協力によって今は盛り返した。 ボーイたちにも、それらしい人間が来たらすぐに客を連れ出すよう言って聞かせてあった。 久しぶりに店に飲みに来た(じゅり)は、弘海の話を聞いて口を押さえた。 「マジか…」 「毎日毎日あらゆる嫌がらせを考えるのよ。この間なんて…」 周りの客に聞こえないように弘海は声をひそめた。 「…ネズミの死体が裏口に」 「げぇぇ……」 樹は自分の身体を抱きしめてさすった。爬虫類とネズミが樹の最大の弱点だった。 弘海は煙草の煙をたっぷり吐き出して言った。 「それで樹。大事な話ってなに?」 「あ…えーと……」 樹は口ごもった。 まさかこんなことになっているとは思いもせず、(しん)の真剣な想いを少しでも伝えたいと思っていた。 何よりも樹は弘海に幸せになってほしいと願っていた。 新のような男なら、気難しく、かつ繊細な弘海を受け止められると思ったからだった。 しかし状況は最悪だった。 樹は上目遣いでちらりと弘海を見上げた。 若干不機嫌に弘海は樹を見下ろしている。樹は意味なくへへ、と愛想笑いを浮かべた。そして世間話のような何気ないトーンで尋ねた。 「…弘海……本当にその嫌がらせ、青戸さんの仕業かな?」 「あ”?」 「その…さ、青戸さんがはめられたりとか、そういう可能性は…」 「樹」 男の声で弘海は樹を呼んだ。びくっと肩を震わせ樹は小さな声で、はい、と返事した。弘海の大きな目が見開かれ、樹を射る。 「何が言いたいのかよくわかんないんだけど?」 「……お…俺、この間たまたま、青戸さんと話したんだよ」 「ふーん……それで?」 「誤解だって…もうヤクザとは関係ないんだって言ってたけど…」 樹が最後まで言い切る前に、だんっ、とカウンターを拳で叩き弘海は声を絞って言った。 「だったらあいつはどうしてこそこそ隠れてんのよ。やましいことがあるから隠れてるんじゃないの?」 「それは…解らないけど…絶対ここは守るって言ってた」 「守る?」 弘海は樹を冷たく見下ろすと、急に背を向けバックヤードに向かった。 「弘海!」 「……あんたが何を聞いたんだか知らないけど、あたしは確かにあいつの名前が書かれた権利書を見たし、毎日嫌がらせを受けてる。それはまぎれもない事実だから。何を聞いたところで、あたしにとってあの男はこの店を潰そうとするヤクザでしかない」  名前を呼ぶ声にも振り返らず弘海はバックヤードに消えた。 裏口で弘海は煙草に火をつけた。 最近煙草の量が増えた。酒の量も増えているのに、酔えないからか夜はよく眠れない。 客の前では気丈に振る舞っているが、確実に神経がやられていた。 裏通りから見える人の流れを見ながら、弘海はため息と一緒に煙を吐き出した。 退去するまで嫌がらせは続くのか。 一週間でこれでは先が思いやられるが、ここを立ち退く気もなかった。弁護士が手を尽くしているが、解決まではまだ時間がかかるだろう。 弘海は後ろで結わえた髪をほどき、空いた手でぐしゃぐしゃと掻きむしった。 ビル風が吹き込んで、弘海の長い髪は舞い上がりふわりと広がった。 風がやんで、弘海の視界を遮った髪の毛が肩に落ちた。 弘海がもう一度煙草を咥え直そうとした時、人気のない裏通りにひとりの男が現れた。 「ひろみちゃん……」 後悔と戸惑いと許しを請う気持ちが入り交じった顔で、新が立っていた。 片手にはいつもの包装紙に包まれた青い薔薇を一輪携えて。 弘海は新を一瞥すると、まるでそこに誰もいなかったように視線を戻し、店に戻ろうとした。 「ま…待って!」 新は駆け寄り、弘海がドアに消えるぎりぎりでその腕を掴んだ。 「…警察呼ぶぞ」 「弘海ちゃん!」 「ヤクザに知り合いはいない」 「聞いてくれ、誤解なんだ、本当に!」 「離せ!」 弘海の拳がまっすぐに新の頬に入った。新は、避けも止めもしなかった。しかし倒れることはなく、よろめいただけで新は弘海に向き直った。 頬には赤く痕が付いた。 「誤解、誤解ってしつこいんだよ!こちとら連日の嫌がらせで疲れ果ててんだ!これ以上くだらねえことを言ったらぶち殺すぞ!」 「確かに俺は極道だった!でも今は違う!もう足を洗ったし、あいつらとは一切関係ない!」 新の顔を凝視したまま、弘海は急に黙った。沈黙が流れる。 つと、手に持った煙草を地面に落とし、靴の踵で踏みつぶした。 それまでの怒りの表情は消え、代わりに悲しげな瞳で弘海は言った。 「頼むからもう来ないでくれ。…関わりたくない」 「弘海ちゃん…」 「誤解だとか、足ぬけしたとか、そんなこと俺にはどうでもいい。俺はただ、ここを好きだと言って来てくれる客にうまい酒と空間を提供したいだけだ」 「…こんなことになるなんて思ってなかったんだ…俺は…俺は……」 「聞こえなかったか?あんたのことなんか、どうでもいいんだ。……二度と顔、見せるな」 弘海は店の中に入っていった。 内側から鍵が閉まる音が、新の耳にも聞こえた。
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