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「物理学も数学も、それ以外の分野も、自然科学は一種の哲学だよ。沢山の『たられば』を繋ぎ合わせて、辛うじて現実と結びついてるだけだ。もしも途中の繋ぎ方をひとつでも間違えれば、たちまち出口のない幻想の世界に迷い込んでしまう。……その危うさが魅力の一つなんだろう、とも思うけど」
そこまで話して、言葉を止めた。そして、目の前で何十枚ものカードを振り分けていく少女を見やった。カードには一枚一枚全て異なるイラストが描きこまれている。しかし、どれがどういった意味を持つのか、見当もつかなかった。
「俺、占いって全然興味ないからわからないけど……。カードって、確か一枚一枚にそれぞれ意味があるんだよな。全部覚えてるの?」
少女が手を止めて七春を見た。そして不思議そうに、少し警戒するような表情で、首を傾げながら応えた。
「最初はね。でも、そのうち覚えようとするのはやめちゃった」
「どうして?」
「解説書を書いた人によってカードの解釈が少しずつ違っていて、調べれば調べるほど混乱しちゃったの。慣れてきてからは、カードそれぞれの大まかなイメージと、あとは絵解きで考えるようになった」
「絵解き?」
「カードの中の人物がどんな表情で、どこを見ているか、とか、書きこまれているシンボルは何か、とか、どんな背景が描かれているのか、とか。それで、カード同士を組み合わせて物語にするの」
「それで、よく当たるね」
すると、少女は少し困ったような微笑みを浮かべた。
「タロットは、クライアントの潜在性と、そこから導き出されうる可能性とを映し出す鏡でしかない。そして占い手は、人と鏡とを繋ぐ媒介。そこで働くのは、人智を超えた『神の啓示』の類いじゃなくて……あくまでも、人間の経験や知恵から得られる『予感』」
断じるように少女が言った。そして、手元のカードに目を落として続ける。
「この世界に、『神が定めた運命』なんてものはない。未来なんて、その人の持つ潜在性の範囲内であれば、いくらでもつくり変えることができる。そういう意味では、未来のことに関して占うとき、当たるとか当たらない、なんて尺度ではかっても、意味はないの」
「それって、『第六感』とか『虫の知らせ』とか呼ばれるもののこと? ……未来がいくらでも変えられるものだと解っているなら、占いはなんのためにあるんだ」
はぐらかされているような気分になりながら畳み掛ける。少し考える素振りを見せた後、少女は応えた。
「繰り返しになるけど……。占いは、占われる人間の潜在性と可能性とを映し出す鏡でしかないの。確かな未来なんて存在しないってことに、多くの人は気付いてる。だけどときたま、どうにもならない理由で、人は自分を見失ってしまうことがある。そういうときに頼るのが、占いなのよ」
「へえ……。なんだか、カウンセリングに似てる」
「そうね。そうかもしれない」
しばらくの沈黙の後、少女が口を開いた。
「でも、ただカードを眺めるだけだと、正しく読み取ることは難しいの。ある人にだけ、特別な意味が与えられるカードもあったりするから。そこで、その人の生年月日や出生時刻から得られる情報も参考にする」
「生年月日?」
以前、少女が自分のことを占ったときのことを、七春は思い出した。その考えを読み取ったように、少女が頷く。
「そう。だからあのときも、あなたの生年月日をきいたの」
「アセンダントがどうとか言ってたけど…?」
少女が得意げに微笑んで応えた。
「アセンダントは、星座の一種。雑誌なんかに載ってる星座占いは、産まれたとき太陽の方向にある星座を扱ったもの。それとは別に、その人が産まれたとき、東の地平線上にあった星座はアセンダント星座と呼ばれ、その人の本質を示すと言われてる。二〇xx年の五月二十七日十九時生まれのあなたの場合、太陽星座はジェミニ―—双子座、アセンダントはサジタリウス―—いて座。これ以外にも、生年月日で割り当てられる星座はいくつかあって、それらを総合したものを、その人の個性として、リーディングに反映させる。カードばかり眺めているように見えて、実際には占い手は、もっと広くて、もっと深くて、もっと遠いところを見てるの。最近は、臨床心理学の知見を取り入れた解釈や、実際のカウンセリングの現場で『科学的に』取り入れようって動きなんかも出てるらしいけど」
「ふーん。……なんだかよくわからないけど、複雑そうだね」
「慣れるとそうでもないわよ」
さも楽しそうに、少女はにっこり笑って言った。なんとなく、彼女が不登校になった原因の一端を垣間見たような気がした。七春自身、多少変人扱いされる部類の人間であったが、彼女はそれを超えているように見えた。
しかしその口ぶりだけを見れば、アイドルや部活といった、自分の好きなことを熱心に語る「普通の少女」と大差はなかった。ただ、その内容がいささか浮世離れしたものだということを除けば。
「そういえば……。俺の生年月日、よく覚えてたね。ひと月も前のことなのに」
「私、一度聞いた人の生年月日は忘れないの。特にあなたの誕生日は覚えやすかったし。5+2=7って、等式になるでしょう」
七春は思わず笑ってしまった。
「ああ、それ、俺もよくやるよ」
少女は嬉しそうに目を細めて七春を見やった。
「へえ、そうなの。私、自分以外でそういうことするって人、初めて会った。……あなた、やっぱり変わってるのね」
最後の一言は聞えなかったことにして、七春は尋ねた。
「そういう君の誕生日は?」
妙にうきうきした気分になっていた。
「三月二十九日。特に何の式も作れなくて、つまんない日」
「できるよ。三の自乗は九だ」
「ジジョウ?」
キョトンとした少女の表情を目にした瞬間、七春ははっとした。彼女の学年では、指数計算や対数計算をまだ教わっていないことを、うっかり忘れていた。
「これから教わる、計算式の書き方だよ。同じ数同士の掛け算を表わすときに、その数字を一つだけ書いて、その右上に小さく2を書くんだ」
「ふうん……」
少女が呟くようにそう応えるのと、礼拝堂の扉が開くのとは、ほとんど同時だった。続いて、誰かが中へと進んで来る足音が聞えた。
「おーい、ぶっちー、いるかーい? 天道さん、もうお帰りになったよ。おおーい、ぶっちーい」
辰美の声だった。とっさに、七春は目の前の少女を見やった。すると、少女は黙ったまま、右手で七春を指し示した。そして、そのまま差し出した手と視線とを、階下の方へと動かして見せた。
七春はバルコニーの縁の辺りまで歩いて行き、少し身を乗り出して下の方へ声をかけた。
「辰美さん、ここにいます。すみません、すぐに行きます」
すると、突然の頭上からの声に驚いた様子で、辰美が七春の方を振り仰いだ。
「ああ、びっくりした。ぶっちーか。なんで、そんなところにいるのさ?」
「それは……」
思わず少女の方を振り返ると、少女は人差し指を唇に当てる仕草をして見せた。七春は向き直り、辰美に言った。
「天道さんを探して、ここに入ったんですが……。でも、景色があまりに綺麗で、ぼーっとしてたみたいです。ご心配おかけして、すみません」
「へえ……そう。幽霊出るって噂があるのに、よく平気でそんなところまで行けるね。俺、こういう所怖くてだめ。……ひょっとして、もう幽霊にとり憑かれてたりして」
「はははははは……。まさかそんな」
背後にいる少女の存在を意識しつつ、笑ってごまかした。
「……まあ、いいや。それじゃ、俺先に事務室戻ってるから。閉門時刻までには帰って来てね」
そう言って出て行こうとする辰美に、慌てて声をかけた。
「辰美さん、待って下さい。俺も一緒に戻ります」
ふと振り返って少女を見ると、少女はひらひらと七春に手を振り、微笑んだ。夕日が差し込むステンドグラスを背景に姿勢よく腰掛ける少女の姿は、どこかフェルメールの絵画を想わせる。七春も思わず微笑み、会釈をしてから螺旋階段を下りた。
辰美が礼拝堂を出て行った後、頭上から少女の声が聞えた。
「またね、『ワンドのペイジ』さん」
恐らく七春を何かのカードに喩えたのだろう。単なる遊び心から出たものだったのかもしれないが、なんとなく戸惑った。七春の中でわずかに芽生えかけた少女への親近感が、しおれていくような気がした。
しかし次の瞬間、もしかしたら、この奇妙な呼び名は、自分が最初に投げかけた言葉に対する彼女なりの返答なのかもしれない、と思い至った。頭上を振り返り少し躊躇った後、言った。
「気をつけて帰れよ、『ラプラスの悪魔』」
少女からの返答はなかった。自分の思い違いだったのだろうかと危ぶみながら、七春はそのまま礼拝堂を後にした。天道という男のネクタイピンがまだポケットに入っていたことに気がついたのは、事務室へ戻ってからのことだった。
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