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礼拝堂の悪魔(8)
七春がアパートの自室へ帰り着くのと、携帯電話の着信音が鳴りだすのとは、ほとんど同時だった。靴を脱ぐのももどかしく着信画面を見ると、『鹿野和秋』と表示されていた。
胃が縮まるような感覚に襲われながら、七春は電話に出た。「馬渕です」
『よお、ハル。久しぶり』
電話口から聞えてきたのは、聞き慣れた幼馴染の声だった。思いがけず軽いその口調に戸惑いつつ、応える。
「よお、アキ」
『元気か。最近全然連絡くれないから、心配してたんだぞ。今どうしてるんだ? ……もしかして、実家?』
「いや。まだ前のアパートで暮らしてる。今、大学の近くの、私立の中学校で事務員やっててさ」
『なんだ、そうなん? だったらさー、今度飲み行こうぜ。この間さ……』
相変わらずのマシンガントークに面食らいながらも、しばらくの間、鹿野と近況を報告しあった。やがて話すネタも尽きてきた頃、意を決して尋ねた。
「ところでさ、芽衣(めい)は元気?」
芽衣は、七春のかつての恋人だ。元をたどれば、鹿野の部活の後輩で、七春がたまたま大会へ彼の応援に行ったとき知り合い、やがて付き合い始めた。今では、鹿野の恋人だったが。
『……え、菊池? あいつのことなら、お前の方がよく知ってるだろ』
この返事に、一瞬頭の中が真っ白になった。しかし次の瞬間、目が覚めたような気がした。別れ話を切り出したとき、彼女は「鹿野と付き合う」とはひとことも言っていなかった。ただ七春が早合点したに過ぎないのだ。鹿野の様子から考えると、七春に話したことも、どこまで本当のことだったのか怪しい。
そう思い至った瞬間、頭から血の気が引いていった。自分自身途方に暮れていた頃とはいえ、自分の迂闊さや暢気さに腹立ちすら覚えた。
『おい、どうした。あいつと何かあったのか?』
「いや、何でも……」
とっさにそう返事をしそうになったが、思い直した。もしかしたら、彼女は自分が思っている以上に窮状にあるのではないか、そんな気がしてならなかった。思い切ってことの次第を全て鹿野に打ち明けた。
話を全て聞き終わると、鹿野が言った。
『確かにお前が入院してた頃、親父さんのことで多少相談に乗ったけど……。お前が退院してからは全然会ってない。そんなことになってたなんて、思ってなかった』
「そうか……」
『大体な、お前。そういうことはちゃんと俺に確認しろよ。菊池とそんなことになったら、俺からはっきり伝えるぞ。何年の付き合いだと思ってるんだよ、親友だろ。もっと信用しろよ』
心底腹を立てた様子の鹿野に、戸惑いと安堵とが入り混じった気持ちを覚えながら詫びた。自覚していた以上に、自分は他人を信用できていなかったらしい。
「とにかく。今、芽衣がどうしてるか知りたいんだ。だけど俺、あいつの友だちとかよくわからなくて……。なあ、アキ。悪いけど、少し調べてもらえないか」
『わかった。ちょっと時間かかるかもしれないけど、わかったらソッコー連絡する』
そう言うと、七春が礼を言うか言わないかのうちに、鹿野は電話を切った。なんとなくほっとして溜息を吐いてから、しばらくの間、携帯電話の画面を見つめた。
あの少女が言っていた『試練』とは、もしかしたらこれのことかもしれない。そんな考えが脳裏を過ぎった。
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