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「はい、それじゃ、馬渕七春くん、ね。……へぇ、これで『カズハル』って読むの? 珍しいねぇ」
「はあ、よく言われます」
「ともかく。来週から、よろしくお願いしますよ」
「はい。ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い致します」
古株らしい、年の頃は五十代後半とおぼしき男性事務員から書類を受け取りながら、七春は返事をした。
「はははぁ、最近の若い人は、返事だけは、いいんだからなぁ」
眼鏡の奥に覗く小さな丸い目を細めて笑いながら、北倉という男が言った。アライグマを想わせる容姿の、どこか間延びした口調のこの男は、この春から七春が勤める職場の上司だ。七春はとりあえず、笑ってかわすことにした。
「はは……」
春休み間近のこの時期、事務室にはこの北倉という男の外は、三十歳前後と見える女性職員しかいなかった。南原というその女性は座ったまま二人の会話を聴いていて、ふふ、と上品に笑ってから言った。
「北倉さん、あんまりいじめちゃだめですよ。馬渕くん、ごめんなさいね。この人あがってるんです。気にしないであげて」
「ははは……」
この言葉にも曖昧な笑いで応えながら、女性に目をやった。女性の左手には、シンプルな金色の指環がはめられている。そしてその左手で、大きく膨らんだお腹を、まるで宝物か何かのようにうっとりと見つめがら、ゆっくりと撫で擦っていた。
「無事に産まれるといいですね」
そう声をかけると、南原はにっこり笑った。
「ありがとう。ついでに馬渕くんみたいな好青年に育ってくれたら、もっと嬉しいな」
明らかにお世辞とわかる言葉だったが、悪い気はしなかった。
「はははは……ありがとうございます」
北倉が咳払いをしながら、敵意の隠った視線を向けてきた。
「それじゃ馬渕くん、構内の案内も仕事の引き継ぎも、ひととおり済みましたからね。南原さんも、今日はもうお帰りになってください」
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