礼拝堂の悪魔(1)

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 事務室を出て、七春は校門へと向かった。構内に人気はほとんどなく、遠くでスポーツ系の部活動によくある、単調なリズムの掛け声なんかが聞こえる外は静かなものだった。  三月中旬にしては冷え込み、薄着だと身体が芯まで冷えきってしまいそうだった。春物のビジネススーツにスプリングコートという格好を選んでしまったことを後悔しながら、七春は背中を丸めた。  ふと目の端に、白くて小さなものがちらついた。見上げると、晴れ上がった青空に季節外れの雪が舞っている。風花だ、と七春が気づいたときには、既に止んでいた。  手にしている、書類の入った封筒に目を落とす。この学園のイメージカラーだという赤みがかった薄紫色の大判の封筒には、気取った書体で『学校法人 風露学園』と印刷されていた。ここが、四月からの彼の職場だ。 ――教師としてここに来たかったなぁ――  学校教師は子どもの頃からの夢だった。しかし、肝心の教採試験の当日、交通事故に遭い、全治四カ月の怪我で入院が決まった。その瞬間、彼の望みは挫かれた。  時速六十キロメートルで走るトラックに跳ねられて命があっただけでも奇跡ですよ、と医師からは諭された。しかし、そんな言葉は慰めにはならなかった 。  その後さらに追い討ちを掛ける出来事が起こった。二カ月の入院生活から解放された七春を、付き合いだして二年経つ彼女が、退院を祝う言葉とともに迎えてくれた。しかし、それに続けて彼女の口から飛び出したのは「ほかに好きな人ができたから別れて欲しい」という言葉だった。  その相手は、七春の保育園から大学まで一緒の幼馴染み、鹿野和秋。話によれば、七春の入院中に彼女の父親が借金を抱えたまま雲隠れしてしまい途方に暮れていたとき、親身になってくれたという。本人曰く「相談にのってもらってるうちに、好きになっちゃった」とのことだった。  これまでの二年間一緒に過ごした中で、心が通じあったと思える瞬間があったのは自分の思い違いだったのか、少しは自分に相談してくれてもよかったのではないか…。様々な想いが胸を過ったが、「そうか」とだけ言って、その願いに頷くことしかできなかった。身のふり先も定かでない自分に、そこで抵抗する勇気はなかった。  その直後から、彼女とは音信不通になった。家の事情が事情なので、心配になり何度か連絡を取ろうとしたが、既に電話番号もメールアドレスも変えてしまったらしく、送信エラーのメールや、「この番号は現在使われておりません」という無表情な音声が返ってくるばかりだった。  アキ――件の心変わり先――にあたってみようか、とも考えたが、なんとなく彼とも連絡を取りづらく、結局何も訊いていない。  気がかりではあった。しかし、鹿野は昔からしっかり者で、自分より一年先に社会人となっている。彼に任せておけば大丈夫、と自分を納得させた。  それからはとにかく、通院しリハビリを受けるかたわら、自分のことに懸命だった。教師になることに全力を注いでいたため、それ以外のことは何もしていなかったのだ。  退院して動き始めたのが大学四年の初冬頃。民間企業は再来年度の採用に向けて動き始めていたし、七春が希望する教科の臨時教員の枠も既に埋まっていた。  近頃では大学院を出た者でさえ、ストレートで教師の職にありつけるのはほんの一握りという状況なのだから、当然といえば当然であった。  二月に入る頃にはほとんど絶望しかけていた。実家に帰り、資格系の予備校にでも通いながらフリーターとしてやっていく覚悟を決め始めていた。  そんなある日、ダメもとで訪れた大学の就職センターで、私立の中高一貫校での、臨時の事務員の募集を見つけた。期間は一年間。勤務先は七春が暮らすアパートのすぐそばだった。担当の女性によれば、丁度その日の朝に資料が届いたばかりだという。  教師ではないが、学校事務なら、民間企業の事務や営業よりずっと自分の希望に近いじゃないか。その間にもう一度教採を受け、次の春までに就職先を決めればいい。そう考え、一も二もなくその求人に飛びついたのが二月の半ば。  連絡をとってみるととんとん拍子に話が進み、その翌日には形ばかりの面接、更に次の日には採用が決まった。それから三週間経った今日、正式に採用が確定し、研修を受けに来たのだった。七春が引き継ぐのは、先程事務室にいた南原という女性の受け持っていた仕事。彼女が出産休暇からそのまま育児休暇に入る一年間、彼女の担当業務を受け持つのだ。  電話で両親にこの旨を伝えたとき、特に母親は正規の職員でないことに難色を示した。しかし当の七春は、願ったり叶ったりだと、内心うきうきしていた。来年度こそはと、固く心に誓っていた。  過去の不運はすっぱり忘れて、新たな一歩を踏み出すのだ。  北倉から貰った構内地図を頼りに正門へと向かっていた七春はふと、立ち止まった。そして、せっかくだからもう一度構内を回って、建物の配置を確認してみようか、そう思い立って踵を返した。  この判断が後々の自分と、そして自分関わる人々の運命を決めることなど、このときの七春は夢にも思っていなかった。
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