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礼拝堂の悪魔(3)
一瞬幽霊かと思ったが、すぐにその考えを打ち消した。こんなにはっきり存在感を持った幽霊が人に話しかけるなど、まるでホラー小説か落語の世界だ。七春が言葉を発するより先に、少女が続けた。
「臨時の事務員さんなんて言うから、てっきりいいお歳のおば様かおじ様かと思ってたけど。結構若いのね」
「どうして……」
自分のことを知っているのか、そう尋ねようとした七春めがけて、少女が何かを投げ落とした。七春はとっさに両腕で自分の頭をかばった。
トランプのような、小さくて硬い厚紙数枚が、バラバラと音を立てて足元に散らばる。
「危ないじゃないか!」
ほとんど叫び声に近い声を出してしまった。しかし少女はそれに応えず、黙ってバルコニーから姿を消した。
続いて、板張りの床を移動しているらしいギシギシという音が上から聞こえてきた。やがて、目の前の小さな螺旋階段に少女が姿を現した。
「紙のカードだから、当たっても大した怪我になんてならないわよ。それに、充分避けるなり防ぐなりする時間はあったはずでしょう」
一切悪びれた様子の感じられないもの言いにあっけにとられながら、ゆっくりと降りてくる少女を見やった。
やけに色白の、尖った顎をした顔に、それを縁取る明るい茶色の髪。腰まで届く髪は、毛先だけ緩やかに巻いていた。背は低く華奢に見えたが、手足がすらりと伸びた成長期らしい身体つきをしている。
無色透明のガラス細工か、氷の彫刻のような印象を与える少女だった。
セーラーっぽい襟がついた白いパフスリーブのワンピースに、たっぷりしたリボンタイという彼女の出で立ちは、この学園の制服だ。三角布の胸元に中等部のマークが付いていることから、中等部の学生であることが察せられた。
長い睫毛に縁どられた、少しつり上がった黒目がちの目は、髪より暗い焦げ茶色だ。その目で七春を見据えたまま、彼女は言った。
「あなた、今朝ここの近くを通ったでしょう、北倉さんと一緒に。私、上の窓から見てたの」
そう言いながら、少女は先程まで自分が立っていたバルコニーのようなところを指し示した。
「『上の窓から』? ……てことは、朝からずっとここに? ここは立ち入り禁止だろ」
なんとなく気味悪く感じて、後退りしながら言った。そんな七春の心中にはお構いなしに少女が近づいてきた。そして七春の前に立つと、しゃがみこんで散らばったカードに手を伸ばした。
改めてよく見ると、それはトランプに似ていたが、少し違う形をしていて、表面には強い光沢があった。表が見えている何枚かにはトランプの数字やマークの代わりに、それぞれに、手の込んだ絵と、ローマ数字と英語とが印刷されていた。
散らばったカードをじっと見つめて、しばらく少女は考えこんでいた。
「何を……」
「あなた、ここ半年ぐらい、かなりついてなかったみたいね。大きな怪我でもしたの? それで就職のチャンスを逃して、ここの臨時職員なんかになったのね」
図星を突かれぎょっとして、出かかった言葉を飲み込んでしまった。少女はカードに目を落としたまま続ける。
「でも、過去のことには自分なりに見切りをつけて、今は新たな目標に向かって歩き出そうとしている、と」
そう言う少女の指先には、木の枝に荷袋をくくりつけ、犬を従えて意気揚々と歩き出す男の姿が描かれたカードがあった。続いて少女は別のカードに視線を移した。
「でも残念。近いうちに、あなたまた何か面倒なことに巻き込まれそう。もっとも、今度の試練は、何かの形であなたに幸福をもたらすみたい。 ……あら、『吊るされた男』が『女教皇』と『女帝』の間で板挟みになってる。あなた意外とモテるのね。……それとも、単に優柔不断なだけ?」
「『意外と』って…」
視線をあちらこちらへと動かしながら、立て板に水を流すような調子で少女は喋り続けた。ただただあっけに取られて、少女の言葉を聞いていた。
「しばらくは自分で自分をがんじがらめにして苦しむけれど、やがて自分を取り戻して、選ぶべき答えを見つけ出すから大丈夫。で、最終予想は……」
そう言いながら、少女は一枚のカードをじっと見詰めた。そのカードには、イバラの花輪で縁取られた空間を背景に、ギリシャ神話の女神のような格好をした女性が、意味ありげな微笑みを浮かべて竪琴を掻き鳴らしている姿が描かれている。それまで眉ひとつ動かさずにすらすらと喋っていた少女が、一瞬顔を曇らせた。
「あなた、生年月日と出生時刻は?」
「は?」
「生年月日と出生時刻。生まれた日と時間。西暦でね。あ、あと出生地も」
「生年月日の意味くらい、知ってるけど……。二〇XX年五月二十七日の…確か、午後七時ちょっと過ぎだったかな。産まれたのは、○○県で……。って、そんなこときいてどうするんだよ」
「二〇XX年の五月二十七日……ってことは、去年は十五で今年は十六。『影』は十九。アセンダントは……」
意味不明なことを呟きながら、少女は突然ポケットから小さな電子端末を取り出した。そしてそれを少し操作した後、その画面を見詰めたまま呟いた。
「サジタリウス」
その後、しばらく沈黙が続いた。やがて七春が声を掛けようとした瞬間、礼拝堂の扉が開いた。
「ああ、やっぱり、馬渕くん。さっき、こっちへ歩いていくのが遠くから見えてね。もしやと思って」
聞き覚えのある声に目を凝らすと、そこに立っていたのは北倉だった。
「北倉さん!」
「まったく、ここへ入っちゃいかんと、言ったでしょうが」
「……すみません」
北倉と七春がそんなやりとりをしている間に、少女は手早く散らばったカードを集め終えていた。そして立ち上がると、北倉の方へ向き直り、優雅な微笑みを浮かべて言った。
「お久しぶり、北倉さん」
「やあ、ユキお嬢さん。お久しぶりです」
ぎこちない笑みをうかべながら北倉が言った。
「すみませんねぇ、彼、まだここに慣れてなくて。ご紹介しましょう。彼は、馬渕七春くんと言って…」
「存じてます。南原さんの代わりにいらっしゃる事務員さんでしょう? 祖母から聞いております」
「ああ、そうでしたか。流石、お耳が早い」
そう言うと、北倉は七春に目配せをした。その意図を理解できずにキョトンとしていると、少し苛立ったような表情を見せてから、北倉は再び少女に作り笑いを向けて言った。
「お話中失礼しますが、彼に、伝え忘れたことがありましてね。しばらくお借りしても、よろしいですかね?」
すると、少女はいかにも興味なさそうに七春を見やった後、小さく肩をすくめて見せた。
「大したお話ではありませんから、どうぞ。ご用が済んでも、お返しにならなくて結構です」
「そうですか、それでは、遠慮なく。……さあ、馬渕くん」
この会話を聞きながら、自分は物か、と心の中で呟いた七春であった。そして北倉に促されるまま、礼拝堂を後にした。
礼拝堂を出た後、北倉の後について歩き続けた。しかし、しばらくして沈黙に耐えかね、とうとう口を開いた。
「北倉さん、俺に伝え忘れたことって、何ですか。それに、あの子は一体何者なんです?」
「私が伝え忘れたこと、というのは、あの子のことですよ。……デリケートな問題ですし、立ち話もなんですから、事務室へ戻りましょう」
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