礼拝堂の悪魔(3)

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 事務室に着くと、すでに南原は帰った後らしく誰もいなかった。北倉は、七春にソファへかけるよう促した後、コーヒーを二人分手早く用意し、来客用のテーブルを挟んで七春の真向かいに座った。 「どうぞ、召し上がってください」 「どうも……頂きます」  ほとんど初対面の男同士二人が、差し向かいでコーヒーを啜る。こんな経験が今までほとんどなかった七春は、内心密かに緊張していた。廊下で、トランペットの音が響き渡っている。吹奏楽部の練習場が近くにあるのだろう。  北倉が小さく溜め息を吐いてから、おもむろに口を開いた。 「まさか、君があそこへ入るとは、思わなくてね。説明しなかったんだが。……彼女は、理事長のお孫さんなんですよ」 「あの、礼拝堂にいた女の子が? ……そうか、だから北倉さん、あの子のこと、『お嬢さん』って呼ばれたり、敬語使われたりしてたんですね」  北倉が力のない微笑みを浮かべながら頷いた。 「ええ。あの子のことは、ほんのよちよち歩きをなさってた頃から存じてます。昔から、聡明なお嬢さんでね……」  そこからしばらく、「ユキお嬢さん」の思い出話が延々と続いた。北倉の説明から、おおまかにではあったが、彼女のことを知ることができた。  少女の名は、西王寺 風花(さいおうじ ゆき)。ここ風露学園の理事長、西王寺楓の孫娘で、正当な学齢では、この春で中学二年生になるという。  「正当な学齢」と但し書きがつくのには理由があった。北倉によれば、彼女は昨年度の間、一度も自分の教室へ足を踏み入れたことがないのだという。いわゆる、不登校というやつだ。  しかし、不登校、といっても、一日中家に閉じ籠っているかといえば、そうではなかった。彼女の場合、学校へは来るが教室に入らないのだ。  一般的にそういった子は、保健室やカウンセリングルームなんかへ入り浸る。しかし、彼女はそれとも違っていた。朝の始業時刻から夕方の終業時刻までの間彼女がいるのは、あの古びた礼拝堂なのだ。定期テストや実技科目の補習なども、全てあそこで受けたのだという。異常としか言いようがなかった。  カウンセラーも入れ代わり立ち代わり彼女の元へ派遣されたが、皆一月足らずで、早々に匙を投げてしまったのだという。 「昔は、ほんとうに、明るくて賢い、素敵なお嬢さんだったんですがねぇ。小学校の三年生くらいから、急に無口になって、笑うこともなくなって。六年生のときに、ある日の夕方、行方不明になったことがありましてね。私も一緒になって、一晩中探しましたよ。それで明け方、あの礼拝堂の奥で見つかって。小学校は何事もなく卒業されましたが、中等部へ上がった途端、不登校になってしまった」  そこまで一息に話すと、北倉は大きく溜め息をついた。そして思い出したように、冷めかけたコーヒーを啜った。 「その……理事長さんや、親御さんは、何も?」  こんなに重大な話を自分にして、大丈夫なのだろうか、と内心首を傾げながらも、七春は尋ねた。手にしたカップの中は既に空になっていた。それに気づいた北倉は七春からカップを奪い取り、コーヒーメーカーのある棚の方へと歩いていった。自分と七春との分それぞれにコーヒーを足すと、再びソファの方へ戻り、七春の向かいに腰かけた。 「どうも、そこが私にもよくわからなくてね。ほとんど黙認されているようで。理事長の可愛い一人娘の、そのまた可愛い一人娘。ってことで、甘やかしているのかなぁとも思えるけれど、楓さんも馨さんも、そんな感じの方々ではないんですよ。おまけに、『あの子はあのままで充分生きていけるから』なんて仰る始末……まあ、お二人とも、お仕事でしょっちゅう飛び回っている方だから、お嬢さん一人にかまけていられないのかもしれませんねえ」 「お祖父様やお父様は?」 「お祖父様は彼女がお生まれになるずっと前お亡くなりに。お父上も、五年前に馨さんと離縁されて、確か一昨年お亡くなりになってますよ」  絵に描いたような崩壊家庭じゃないか、と七春は呆れ返ってしまった。 「それは、なんと申しますか……」  それ以上、二の句も次げずに七春は黙りこんでしまった。そんな七春の気持ちを察したように、北倉が言った。 「とにかく、そんな訳で、あそこは彼女の砦なんです。あそこが立ち入り禁止なのも、老朽化のためなんてのはウソっぱち。彼女があそこにいるのを知られないようにするためなんです。ですから、金輪際、あそこには近付かないようにしてください。それから、今話した件については、他言無用ですよ」
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