礼拝堂の悪魔(4)

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「はい……はい。承知致しました。それでは、そのように伝えます。……あ、はい。よろしくお願い申し上げます。はい。それでは、失礼致します」  電話を切ってから七春は小さく溜め息を吐いた。 「まだまだカタいな、ぶっちー」  はっとして声の主を見た。同じ事務の辰美 (たつみ)という男性職員だった。  百八十センチメートルを軽く超す、長身のひょろりとした体躯に、撫で付け整えられた黒髪。小柄で腹がせり出した、白髪混じりの北倉とは、見事なまでに対照的だ。歳は三十代半ばといったところ。  仕事に一段落がついたところらしく、湯気を立てるコーヒーカップを片手に、彼は窓辺に佇んでいた。  辰美から、窓辺で優雅に揺れるレースのカーテンへと視線を移した。半分開け放たれた窓から、心地よい春の風が吹き込んでくる。ここ風露学園に勤め始めてから三週間が過ぎ、今は四月の後半に差しかかっていた。 「そう、ですか?」  恐る恐る尋ねた七春に、辰美が応える。 「そうだね。うちへ来たばかりの頃の君が、キンキンに冷えたゴリゴリくんのソーダ味だとしたら、今の君は茹で過ぎたタコってところかな」 「はあ……」  わかりそうでわからない喩えに内心目を白黒させながら、ぼやけた返事をした。 「辰美さんがユル過ぎるんですよ。馬渕くんが茹で過ぎたタコなら、あなたは溶けたアイスクリームでしょ」  淡々とした口調で呟くようにそう言ったのは、もう一人の事務員、居縫(いぬい)奈緒だった。彼女の視線は目の前のパソコン画面に向けられたままだったが、辰美と七春との会話はしっかりと耳に入っていたようだ。  身長は百五十センチメートル足らずと小柄。黒い髪を、黒いくちばしクリップでいつも器用にまとめている。シンプルな黒縁眼鏡が鎮座している童顔の小さな顔には、ほとんど化粧っ気がなかった。服装も、モノトーンのパンツスタイルばかり好んで着ているらしい。  彼女は昨年度新卒で採用されたばかりの新人だという。歳は七春と同じそうだが、見た目だけなら高校生か中学生でも通りそうだった。 「そこまで言う? 相変わらず手厳しいなあ、奈緒ぽんは」 「事実を言ったまでです。それと、その馴れ馴れしい呼び方、そろそろ止めていただけませんか」  二人のやりとりが自分そっちのけで飛び交うのを黙ってやり過ごした。ほとんど毎日同じ調子で、この二人の言い合いは繰り返されている。  ふと、硝子張りの窓口に人影を見止めた。そちらへ目をやると、窓口から恐る恐るといった様子で事務室の中を覗き見ている、三人組の女子生徒の姿があった。 「おや。まーた、ぶっちー目当ての生徒さんかな?」  そう言いながら、辰美が窓の外の少女たちににこやかに手を振って見せる。すると少女たちは、少し戸惑ったような表情でお互いに顔を見合わせた。そしてちらちらと何度か七春の方を見た後、窓硝子の枠の外へと姿を消した。 「いやー、色男は大変だね」 「ははははは……」  新学期が始まってから、ほとんど毎日休み時間の度に、中等部の学生――それも女子生徒ばかり――が、事務室へやって来ては七春を物珍しそうに眺めて去って行くのだ。七春には、どう考えても自分が珍獣扱いされているとしか思えなかった。 「ところで二人とも、もう二時半だけど、まだ仕事してるの? 俺なんて、今日の分の仕事、もうほとんど終わっちゃったよ」  得意気に辰美が言うと、パソコンのモニターを注視したまま居縫が応えた。 「辰美さんと一緒にしないでください。私だって今日までの仕事は全て終わりましたよ。今は、来週までの仕事の最中です」 「奈緒ぽんは、ほんとうに真面目だなぁ。そんなに働き詰めで、よく病気にならないね。……ぶっちーもそう思わない?」  少し躊躇ってから、七春は応えた。 「実は俺も、今日の分は全部終わってるんです。それで、ほかの仕事を。来週の火曜まで南原さんがいらっしゃらないんで、それまでにききたいところを洗い出しておきたくて」  産休に入った南原だったが、四月中は七春の補佐として、週に二度、午前だけ出勤している。五月以降は、出産前後の経過をみながら、週一から月一で来ることになっていた。  今七春が使っている席は、数年前に退職した職員が使って以来物置になっていたものだった。その真向かいに南原の席があり、左隣に居縫、左のはす向かいが辰美、そのさらに左手側の「お誕生日席」が北倉の席となっている。北倉は今、席を外していた。  七春の返事に、辰美は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。そして、躊躇いがちに言った。 「今まで、奈緒ぽんみたいな子ってかなりレアだと思ってたんだけど……。最近の若い子って、結構真面目な子が多いんだね」 「フツーだと思いますけど……」  七春がそこまで言ったところで、入り口の引戸が音を立てて開いた。薄汚れた白衣姿の教員が、ドスドスと足音高く事務室へと入ってくる。 「辰美さーん、いる? ちょっと頼みたいことあるんだけど……」 「おお、鳥羽先生。久しぶりじゃありませんか」  その後、辰美と鳥羽という教諭とは、仕事ともプライベートともつかない話に花を咲かせた。 「どうです、今夜久しぶりに一杯。いいお店見つけたんですよ」  鳥羽がお猪口でお酒を飲む手真似をすると、辰美が満面の笑みを浮かべた。 「いいですね。今日は金曜ですし、なんなら二人で朝まではしごでもしましょうか」 「そんなことしたら、私が辰美さんの奥さんに怒られますよ」 「へーきへーき。うちのなんて、当分出張で家になんて居ませんから」  二人のやりとりを聞いていた七春は、そっと隣の居縫を見やった。居縫は七春の視線に気付くと、静かに目を閉じた。そして、七春に向かって小さく首を横に振ってみせた。 「もう今日のお仕事全部終った、有能で優しさ溢れる馬渕七春くーん。ちょっとおつかい頼まれてくれない?」  辰美のこの言葉に、七春は内心溜め息を吐きつつ立ち上がった。 「……はい」
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