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結局、乙姫様と浦島様は離縁されることになりました。
最後に、浦島様を出会った浜辺にお送りしたのは、私です。
繰り返される波の音も、強い日射しや蝉の声はあの時のままでしたが、もう人の世では長い時が過ぎているのでございました。きっと浦島様を知る方は誰もいないでしょう。私はその事を浦島様にお伝えしたのですが、それでも浦島様はやはり地上へお戻りなるということでした。
浦島様は浜辺から、様子の変わり果てた村を目を細めて眺められると、深いため息をつきました。かつてそこににあった家や船はなく、別の場所に別の家や船があります。
そのため息に私は心が痛かった。全ては、私と乙姫様がこの方を巻き込んでしまったようなものです。仁慈の心を持つこの方は、この先どうやって生きていくというのでしょうか。
私が涙で頬をぬらしていると、浦島様はぽつりと言いました。
「俺は乙姫のしたことが許せなかったが、それでも感謝しているところもある。実は、俺は嘘をついていた」
「嘘・・・ですか。一体どのような」
「俺の身の上のことだ。俺は以前竜王様に、昔帝位を譲りたいということを言われ、それを断って身を清めるために浜辺に暮らしていたといった。」
「はい、私も覚えております」
「だが、あれは許由の話を引用しただけだよ。俺はすでに天子だった」
一際高い波が、近くの岩を打って、しぶきが上がり、遠くで鶴の声が空に響きました。私は口元を抑え、どういうことなのかを尋ねました。
「俺は物心つく前に、この国で力を持っていた貴族よって帝とへ祭り上げられた。だが、敵対する貴族との戦いに敗れ、俺は分からぬまま帝位を追われて海へと入水したのさ。その時俺は七つだった。それが浜辺へと流れ着き、同じく死にきれなかった臣下だった老夫婦に育てられここにいたのだ。俺は、毎日毎日呪っていた」
その時の浦島様の顔は、眉間を狭め、ゆがんでおりました。
「俺は幼い自分を政に利用した奴らも、あのように惨めな入水に追い込んだ敵方も、そしてそのような運命を背負わせた世の中も全てを恨んで憎んで、呪っていた。だが、それは地獄であった。誰かを地獄へ落とそうという時、この世を呪う時、己が立っているのは、やはり地獄という場所なのだ。だがそれに気づいていたとしても、恨みや憎しみは、自分の知らぬところから湧き出て己を毒していく。だから乙姫が俺の魂を封じ込めていた間、俺はその苦しみから逃れることが出来ていたのだ」
「浦島様」
「壇ノ浦の浦島。安らかな五百年であった」
その表情は、菩薩のようでございました。
ですが、次の瞬間、浦島様は両手で頭を押さえ、また翁のように顔をしわくちゃにして泣き出しました。
「だがそれも今日までだ。次第に俺の心は怨嗟に染まるだろう。また地獄の日々がはじまるのだ。嫌だ嫌だ。どうか後生だ。今一度、ここであの玉手箱に俺の魂を入れてくれ。そうすれば私はまた」
確かに私は、最後に浦島様にお渡しするために玉手箱を持ってきていました。ですが私はこれを開けることが出来ません。
「それは、私には出来ません。浦島様、確かに乙姫様はあなた様を支配しようと、玉手箱を使いましたが、自分の魂を封じ込めて、楽を得るというのは大変罪深いことだとはお思いになりませんか。結局、虚しいものなのです」
「しかし、そうしなければ俺は安らげない!また地獄に戻ってしまう!」
浦島様は形相を変え、私の手から玉手箱を奪い、走り出しました。そしてまだ姿が小さくなっていないくらいの距離で、箱を開けたのです。
するとその瞬間、箱から白い煙がもくもくと立ち上がり、その煙は浦島様を包み込んでしまいました。
海から吹く風にその煙が吹き消されたあと、そこにあったのは一人の翁の姿です。五百年の時を超えて、若く瑞々しい姿であった浦島様は、まるで百の齢を超えたような姿になっていました。
「浦島様、そのお姿は」
浦島様は震えながら自分の深々と皺の刻まれた両手を眺め、水面に映る自分の姿を見て、何が起きたか悟ったようでした。すると浦島様は突然声を上げて笑い出したのです。
「はっ、ははは。年を取れば恨みは消えるとな。時が過ぎれば憎しみは薄れるとな。いいや、この浦島、まだ消えぬ。この内なる炎と毒は消えぬわっ!」
天を仰ぎながら、歯の抜け落ちた口元がよだれにまみれながら、笑う姿は大変醜く恐ろしく、もう私の知っている浦島様ではありませんでした。あるいは、本当の浦島様という方は、こういう方だったのでしょうか。
「見ていろ。この浦島。この世を乱してくれるわっ」
浦島様はそう天に宣言したように叫ぶと、姿を黒い鶴に変えました。
そして私へ呪いのように高く一声鳴くと、夕暮れの空へと飛び立っていったのでございます。
乙姫様が行方不明になったのは、それから数日後のことでした。
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