沙悟浄の娘

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 その日、竜王様からまた呼び出しがございました。 「喜ぶが良い。お前の父君はついに、西天取経者三蔵の供として任を果たしたぞ。膨大な経典を大唐帝国に持ち帰ったのだ。父君は釈迦如来様から金身羅漢の称号を与えられ、天帝陛下からも復職と天界への帰還を許された。お前も、いつでも天界へと戻れるぞ」  私は平伏していて、竜王様のお顔を拝することは出来ませんでしたが、その声はやはりどこか沈んでおりました。視線を脇にやると、空いた酒瓶が山のように見えます。 「では、すぐに天界へと戻りたいと存じます。竜王様をはじめ、竜宮の方々には大変お世話になりましたが、なにぶん、ここには乙姫様との思い出が多すぎますゆえ」  竜王様は、少し艶の失った髭を撫でながら、静かに頷かれました。  そして、私が別れのご挨拶に豊海宮へ伺った時のことです。普段はお目にかかることの叶わない豊玉姫様が、特別にご挨拶を許して下さいました。  相変わらず、豊玉姫様は儚く、青鈍色の慎ましい身なりとお暮らしぶりでした。 「長年、ご苦労でしたね。」  囁くように小さな声で、労いの言葉を頂いたその時、私は長年の疑問を伺いました。 「あの時、玉手箱を乙姫様に届けたのは、豊玉姫様だったのですね。婚礼の大宴に盛装していらっしゃったのも、あるいは」  豊玉姫様はその質問には答えず、睫を伏せられました。 「私にも、あなたのような侍女が、いえ友が欲しかった。あの日、捲簾大将殿が引き合わせたのが妹では無く私だったなら、なにか変わっていたかもしれません。」    私が竜宮にいた最後の日の事でございました。  その後私は、天界へと帰り、父と数百年ぶりの再会を果たしたのでした。  父の旅の話をひとしきり聞いた後、お前はどのようにして過ごしていたのだと聞かれ、私は泣きながらこれまでの事を話したのでした。 「私が竜宮で出会った方々はどなたも良い方ばかりでしたのに、皆様孤独や嫉妬や憎しみを抱えておりました。今この時も、あの方々は苦しまれていることでしょう。あの方々が救われる道はないのでしょうか」  するとすでに尊者とも呼ばれるようになった父は、目を閉じ、何かを念じました。 「ふむ。現在・過去・未来を見通して、良い事と悪いことが分かった。どちらから聞きたい?」 「では、先に悪い方から」 「まず乙姫殿と浦島殿だが、残念ながら仏教で言うところの畜生道・修羅道に堕ちてしまった」 「なんということ」 「だが安心せよ。お二人はそれぞれ熊野権現様と観世音菩薩様が救うて下さることを約束されているようだ。お二人は時を遡った来世で、浦島殿は僧侶として乙姫殿は女人として生を受け、愛し憎しみ合う因果が生まれているが、それも法華経によって救われ、天界へと上がるだろう。うむ。間違いない。」  私は父の言葉に、滂沱の涙で手を合わせました。 「あの方々は救われるのですね。私は、また乙姫様に会えるのですね」 「おうとも」 「何という喜ばしいことでございましょう。しかしお父様、私も何か手助けが出来ればと思うのです。私に何か出来ることは無いでしょうか」 「うーむ。そうだな。先ほど儂は僧侶と女人の話をしたが、その二人が訪れ法華経の功徳を受ける寺がある。もしお前が望むのならば、その時にその寺の住職としてその場にいるがいいだろう。お前が経を唱えるのだ。それには仏法を学び、時を遡る事になるがかまわないか」 「はい、もちろんでございます。時にお父様、その寺の名前はもう分かっているのでしょうか」 「うむ、道成寺である」  長い長い時が過ぎました。  私は道成寺の住職として身を変え、お二人を待っています。 さあ、今宵がその時でございます。私は梵鐘を用意しておくことに致します。 それからのお話は、皆様が知っての通りにございます。  終わり
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