5 カイルの霍乱

1/1
前へ
/94ページ
次へ

5 カイルの霍乱

 リジーはモップを洗ってかたずけて休憩室に戻った。スーザンはまだだったが、コーヒーサーバーの所に先客がいた。カイルだった。 「!」  見ると、カイルは紙コップを持たずに、注ぎ口の下に置いたままボタンを押していた。  リジーはじっと観察してしまった。 (そうか、置けば落とさずに済むんだ) 「なに見てる!?」    リジーの視線に気がづいたカイルが鋭い声を上げた。 「す、すみません! さっきサーバーの使い方を失敗してしまったので、カイルさんのやり方をお手本にしようと見てました。声もかけずに勝手にじっと見てすみません」    カイルが、ギロっとリジーを見た。 「これを失敗って……。馬鹿なのか?」  冷淡に言い放たれた。 「はい、馬鹿です」  リジーは肩を落とした。 「自分で言うな。……ほら、やってみろ」 「え?」 「見てたんだろう?」    カイルに顎でやれと促され、リジーはカイルの威圧感に負けた。  恐る恐る紙コップを注ぎ口の真下においた。それからボタンを丁寧に押した。  すると、コーヒーが勢いよく出て、多少ははねたがうまく紙コップに満たされた。 「できました! カイルさん!!」  満面の笑みを浮かべるリジーに、カイルはため息を返した。 「馬鹿か……。それくらいガキでもできるだろ! サーバーなんかの使い方より、早く仕事を覚えろ!」 「は、はい……」  リジーはしゅんとしたが、カイルの言うことは最もだ。早く仕事を覚えたい。 「仕事、がんばります!!」  リジーは顔を上げ、目力でカイルに対抗してみた。  カイルはきつい目線を返すと、一度瞬きしてから無言で自分のコーヒーを持ってその場からいなくなった。 「ふう」  リジーはようやくためていた息を吐いた気がした。    その後すぐにスーザンが戻って来た。 「シミはきれいに落ちたよ。ベランダに干して来た」 「よかった……。ありがとうございます」  リジーはホッとした。 「すぐだったからね。これは、別のエプロン。午後はこれを使って。あれ、まだお昼食べてなかったの? じゃあ急いで一緒に食べようか」 「はい」 「あ、今度はうまく注げたんだ」  スーザンはリジーの手元のコーヒーを見て、微笑んだ。 「はい、カイルさんのやり方を見て……」 「え? カイルいたの?」 「コーヒーを取りに来たみたいですよ。コーヒーを入れて、すぐに行ってしまいましたけど」 「へえ~」  スーザンは意味ありげな顔をしたが、リジーにはわからなかった。 ♢♢♢♢♢♢    店の喫煙室を利用する社員は、普段ふたりしかいない。    シルビアとカイルだけだ。ふたりは偶然一緒になると、何となく会話する仲だった。  カイルは昼は必ずコーヒーを飲みながら一服する。いつもは近所のカフェからテイクアウトするのだが、今日は休憩室のサーバーのコーヒーを顔をしかめながら飲んでいた。    シルビアは椅子に深く座り、組んだ足をぶらぶらさせながら煙草を吸っていた。 「よく、あの不器用で素朴な小娘を採用したな?」  珍しくカイルから声がかかったので、シルビアは眉を上げおや? という表情をした。 「え? 酷い言いようね。あなたがそれを言う?」 「俺も、よく……の方ってか? 確かにな」 「うちにはいないタイプだったし、これからは素直な癒し系も需要があるかと思ってね。あの子に興味持った?」 「まさか!」 「あの子、面接の時に絵が好きだって言ったから、ちょっとふったら、画家のうんちくを次から次へと語り出して……。それが子守歌みたいに心地よくて寝そうになったわ。画家では特にマリー・ローランサンが好きなんですって。ローランサンの恋の遍歴とか、同性愛者っぽかったことまで話し出したときは……アハハハ、可笑しかったわあ」    シルビアが身体を揺らしながら豪快に笑い出したので、カイルは引いた。 「あとは彼女の声が個人的に好きね。なんだかほんとに癒されちゃって……。だから採用!」 「大した理由だな。そんなだからいつまでたってもこの店が儲からねえんだ」 「あら、カイルがもうちょっと人あたりが良かったら、女の子にうけて女性客が増えると思うんだけど?」 「無理」  カイルは目を細め、不機嫌な顔で即答する。 「うふふ、私はカイルのそういう顔、好きだけどね。物好きが現れると良いわね。私みたいな……」  シルビアがニヤリとする。 (笑えねぇ)  と、カイルはそっぽを向く。    喫煙室でのシルビアは、よくカイルをからかって遊ぶ。 『できました! カイルさん!!』  不意にカイルの脳裏にリジーの無邪気な笑顔が浮かんだ。あれは無意識であって自分に対してじゃない。おそらく、そこに誰がいようとあの顔だったに違いない。    カイルはシルビアに観察されていることに気が付いていない。 『あの子に興味持った?』 (断じてそれはない……。珍しいだけだ。偶然にしても、今まであんな顔を女から向けられたことが無かったからな)  カイルは根元まで吸った煙草を捨てた。    (カイル)霍乱(かくらん)? かしらね。  シルビアはまたニヤリとすると、2本目の煙草にゆるりと火をつけた。
/94ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加