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1 出会いは〈スカラムーシュ〉
穏やかな日差しのある日の午後、ある家のリビングで、母と娘が並んでソファに座っていた。
「明日はいよいよ高校の卒業式ね。よくここまで無事に育ってくれて……」
母は娘の栗色の柔らかな髪を指で梳いて、愛しそうに頬を撫でる。
そんな母キャシーに向かって、娘リジーは背をぴんと伸ばし決意を言葉にした。
「お母さん、私、高校を卒業したらハーバーシティに行くから! そこで働くね!」
「え? リジー、なんですって? まだ進路は決めてないんじゃなかったの?」
キャシーは驚いてソファから身を乗り出した。
「実はもう、勤め先も決まってるの」
娘はどうだと言わんばかりに胸を張っている。
「い、いつの間にそんな。聞いてない! どんな仕事!? 住む所は!?」
母は突然のことに驚いて、目の前の娘の両肩を掴んで揺り動かす。
「仕事はモダンな家具や雑貨や絵を売っているインテリアショップの店員だよ。住む所はこれから探す!」
「きゅ、急に何を言いだすのよぉ……この子はもう、なんの相談もしないで」
明るく前向きだが、物事をあまり深く考えないで進もうとする娘に、母は呆れた。
♢♢♢♢♢♢
高校を無事に卒業したエリーゼ・リード、リジーと呼ばれる娘は重いトランクと軽やかな夢を持って賑やかで大きな駅に降り立った。
新たな一歩をこの街、ハーバーシティから始める。
『リジー、絶対鞄から目を離したらだめ。ぼうっと立ち止まったり、あまりキョロキョロしたりしないこと。都会はスリや置き引きが多いのよ!』
母からの忠告を思い出し、気を引き締める。
本当にひとりの生活が始まる。
(大丈夫、頑張れる!)
不安もあるが、そう自分に言い聞かせた。
街の地図を頼りに通りを進む。
近代的な街の中でも、比較的古い建物が多い通りだった。
住むところを決めていないというリジーの話を聞いて、すぐにキャシーは動いた。
キャシーの従弟デイビッドが、オーナーをしている<スカラムーシュ>というアンティークショップの2階の空き部屋を借りることになった。
リジーは住めるならどこでも良いと思っていたので、特に異論はなかった。
リジーの記憶では、デイビッドはたまに家に来ては一緒に遊んでくれる楽しいおじさんだった。ここ数年は来なくなっていたが、好きだったのは覚えている。
同じ道を何度も歩いた気がするが、なんとか目指す番地にたどり着いた。
1階のアンティークショップの窓から、スタンドやランプの暖かな光が漏れている。
<スカラムーシュ>と書かれた古ぼけた木製の看板が通りに出ていた。
リジーは母キャシーとのやりとりを思い出した。
『リジー、あっちに着いたらまず<スカラムーシュ>の店長のジョンに挨拶してね。部屋の鍵を彼から受け取って。あなたのことは話してあるし、お願いしてあるから。デイビッドはオーナーだけど、放浪癖があってあまり店にはいないと思うから、あてにしないで。何かあったらジョンを頼りなさい』
『わかった。ジョンさんてどんな人?』
『会ってからのお楽しみ』
母がそこで含み笑いをしたのを覚えている。
『お楽しみって、なんで?』
ジョン・ジエル。気が付いたときには、毎年母親あてにクリスマスカードが送られてきていたようだが、どのような人物なのかリジーは知らなかった。
見上げると3階建てのアパートメントのようだ。ドアの無い内玄関の先に上階に行く階段が見える。<スカラムーシュ>の入り口は、階段の手前にあった。
リジーは店の入り口に来ると、アーチ型のガラスが嵌め込んである木製のドアをノックして押し開けた。
「こんにちは!」
リジーは声を張り上げた。静かな店の中に思ったより自分の声が響いて恥ずかしくなった。
見渡した店内には、古い家具やスタンドやランプ、小物類が所狭しと置いてあった。
奥でなにやらガサゴソと作業していたらしい、黒い人影が立ち上がったのが見えた。
リジーは息を飲んだ。
ジョン? と思われる人物が、リジーの方へ無言で足早に近づいてくる。
カラスのような漆黒の無造作な髪、濃い茶色の鋭い瞳の男性で、20代後半くらいだろうか。
アジア系?の顔立ち。清潔感のある白いシャツとの対比が眩しい。
「あ、あの、ジエルさんですか? 私、今日からここの2階の部屋に入るエリーゼ・リードです。はじめまして、どうぞよろしくお願いしま、す……」
緊張で挨拶がやたら早口になって、所々声が掠れた。
目の前に視界を遮る白いシャツの壁が迫った。
リジーが見上げると、すごく顔が近かった。
腰を屈めて、リジーを穴があくほど見つめる男は、何か遠い瞳をしているような気がした。
男の手がゆっくりとリジーの頬に触れそうなくらい近づいてきた。
リジーは思わず一歩後ずさったが、ドアにぶつかった。
その音に我に返ったような表情を見せると、男はそのまま手を彷徨わせ、ようやくリジーの頭上に行き着いて、撫でた。
「!?」
ドアを背に身動きできずに固まっているリジーに、
「あ、失礼。僕はジョン・ジエル。きみのお母さんから連絡をもらっていたのに驚いてしまって。こちらこそよろしく」
と、ジョンはリジーの頭上から引っ込めた手を照れた様子で差出し、握手を求めてきた。
リジーが戸惑いながらもおずおずと握手に応じると、ほっとしたような笑顔になった。
すっぽり手が包まれる。ジョンの手は大きく温かい。
自分に向けられたジョンの笑顔はどこかぎこちなかったが、少年のように爽やかで清々しいとリジーは思った。
「僕のことはジョンと呼んで欲しい。きみのお母さんと同じようにきみをリジーと呼んでもいいかい?」
そしてジョンの物静かな声は、リジーの緊張を一瞬で解かすほど優しい響きだった。
「はい……。あの、デイビッドおじさんは?」
「ああ、オーナーは買い付けに海外へ行っている」
視線をあらぬ方へ泳がせている。
「そうですか」
(お母さんの言っていた通りだね。おじさんはあてにならないみたい)
「きみの引っ越し荷物は部屋に届いているよ。オーナーから鍵を預かっていた」
ジョンはシャツの胸ポケットに入っていた鍵をリジーに差し出した。
ほんのり温かくなっていた鍵を手にしたリジーは少しドキリとした。
「すみません、荷物受け取ってくださったんですね。ありがとうございました」
「どういたしまして、リジー。僕にそんなに丁寧に話す必要ないよ。それからこの通りの先に大きなショッピングセンターがある。そこで普段の食品や薬、生活用品がだいたい揃うから落ち着いたら、行ってみるといい。あと、わからないことがあったらその都度聞いてくれ」
「はい、ありがとうございます」
リジーは丁寧に自分に話してくれる、気さくな雰囲気のジョンに安心感を持った。
デイビッドも母も信頼している人なのだろう。部屋の鍵を預けるくらいだから。
鍵には細かい青い石が埋め込まれた、楕円型のキーホルダーがつけてあった。
「綺麗なキーホルダーですね。ターコイズ?」
「あ、嫌だったら自分で別のを付けて」
「いえ、使わせてもらってもいいんですか?」
「良かったら使って。ターコイズは厄除けのお守りにもなる」
「ありがとうございます! 嬉しいです」
そこでふと頭をよぎる。
(厄除けって……。お母さんたら、もしかして私があわてんぼうとかうっかり者とか、彼に余計な話をしたんじゃ。そんなに心配されるほど子どもじゃないのに!)
リジーが恥ずかしさを誤魔化しながらジョンに笑顔を向けると、ジョンからは温かな笑みを返された。
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