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ああ、なんてことだ。原田は心底そう思った。
今までの人生、逆境を乗り越えてこそ成長があると思ってきた。勿論自ら喜んで飛び込みはしないが、そういう状況に置かれることがあれば文句は言わず、ひたすら立ち向かってきた。
だが、今日ばかりは弱音を吐き、脱兎のごとく逃げ出したいと本気で願った。
「あっ、斉藤だ、斉藤!」
一緒に歩いていた島村が突然そう言って人混みに紛れ、店を探してよそ見をしていた原田は完全に出遅れた。
島村が呼んだ名前が珍しい名前だったら、もう少し注意を払ったかもしれない。しかし斉藤という苗字とある人物が原田の中であまり密接に結びついていなかったので、きちんと聞いていなかったのだ。
どうでもいいことだが、原田にとって「斉藤」といえば十歳ほど年上で感じのいい男性の同僚である。
「なあ原田!」
島村の声に顔を上げてぎょっとした原田は、思わず手の中のスマホを取り落としそうになった。
「斉藤見つけたー」
「……よう」
島村にがっちり腕を掴まれて仏頂面で立っていたのは友人である斉藤和伊。そしてその後ろに、名前は知らない和伊の「友達」が立っていた。
「そんじゃとりあえず生でいい? いいよな?」
訊ねたくせに返事を待たず、島村は店員の呼び出しボタンを押した。二部置いてあったフードメニューを開き、一部を和伊に渡す。
「はい、そっちで見て」
一体何でこんなことになっているのか、と思っているのは自分だけではないはずだ。というか、島村以外の全員が多かれ少なかれそう考えているだろう。
島村と二人で飲もうという話になったのは前から予定していたことではなかった。給料日直後ではないものの、金曜の夜だからどの店も混んでいるだろう。店の予約はしなかったから、適当に入って空席があればいいと思っていた。
そう思って二人で来たというのに、まさかいきなり四人に増えて、しかもちょうど四人掛けが空きましたなんて笑顔で案内されるとは思っていなかった。
せめてどこにも空席がなければ、また次の機会にしようと笑顔でお別れすることができたのに。
一見無邪気に──三十過ぎた会社員で真実無邪気なヤツなんて多分いないが──料理を選んでいる島村に目を向ける。イカゲソ揚げにするかタコの唐揚げにするか真剣に悩んでいる三十路会社員は、原田の恨みがましい視線には無頓着だった。
テーブルは原田と島村が並んで座り、原田の向かいに和伊、その隣に和伊の「友達」井川という配置になっていた。
まあそれ以外どうしようもないと言えばどうしようもない。
島村は生来の人懐っこさを発揮して井川と普通に話をしている。恐らく井川も社交的なのだろう。はしゃぐタイプではないようで終始落ち着いているが、島村とそれなりに話が弾んでいた。対して原田と和伊はほとんど喋らず、さっきから黙々と飲み食いしていた。
気まずいというか、なんというか。
原田には自分が案外朴念仁だという自覚があるが、それでもさすがに和伊と井川がどういう関係かはもう分かっていた。和伊がいずみと付き合っていた頃から自分に対して恋情めいたものを持っていたことも──そして、和伊自身がそれを自覚していなかったことも今は知っている。
色々なことを知って、しかしそれでも和伊は原田にとって親友だったし、自分の中の和伊の、そしていずみの重さや立ち位置にはまったく変化が起きていなかった。
「……なあ」
「……ああ?」
和伊は豚串に歯を立てたまま上目遣いで原田を睨んだ。華奢な骨組みをしているくせに、和伊は結構荒々しい性格だった。暴力的では決してないが、所作や目つきにもそれが滲み出ている。
「この間はごめん」
原田が軽く頭を下げながら言うと、和伊はぽかんとした顔をした。豚肉に噛みついていた顎が弛んで、歯ブラシを銜えかけている子供みたいに見える。
「は?」
「いや、だからこの間は……」
「原田、お前今そういう──」
「いやでも、今言わないと言えないかもしれないし」
「あのなあ……」
原田が謝罪したのは、和伊にキスしたことについてだ。確かにこんな場所で話すことではないけれど、具体的に言わなければ周囲には何のことか分からない。
「お前が言った通りだと思って──」
電話越しに僅かな時間漏れ聞いただけだが、はっきりと分かった和伊と井川の甘く親密な気配。和伊の掠れた喘ぎ声。あの時、それを裏付けるような和伊の言葉をきいてかっと頭に血が上ったが、本当は、和伊への劣情が湧いたわけではなかった。
冷静になって考えれば、家族──例えば弟とか──に悪い虫がついたのを知ったときの苛立ちのような、庇護欲のような、そんな感情だったのだろう。
和伊は、原田が感じているのは仲のいい友達を取られたくないという気持ちでしかない、と言った。
違う、違う、俺だって。
何故か自分に言い聞かせた。そうじゃない、俺だって。
俺だってなんだというのか。和伊を恋愛対象として見られるということか。
確かに、結婚式の日に井川と並んで立つ和伊に対して何かを思った。ほんの束の間。あれは何だったのか、何でもなかったのか。
答えなんてひとつも出ない。ぐるぐる回る頭を抱えてタクシーに乗って自宅に戻り、玄関の鍵を開けて顔を上げたら、そこにはいずみが立っていた。
「お帰り」
「あ──ただいま」
何びっくりした顔してるの。そう言って笑ったいずみ。その顔を見たら、止め方を見失ったような低い呟きはぴたりと止んで、その後一度も戻らなかった。
「俺が思ってたのはお前が指摘したとおりのことだったと思う──よく分かんねえけど、多分」
「……」
「お前が言ったことは正しい。俺が間違ってた。でもそれってお前にとってはどういうことになるのかよく分からないけど……ごめんな」
和伊は馬鹿とか何とか口の中でもごもご言いながら豚串に噛り付いた。
「──和伊」
「うるせえな、何回も謝んなよ」
「だってお前、そんなこと言うけど」
「もういいって!」
押し殺したような和伊の声に井川が一瞬こちらに目を向けた。だが、視線はそこに止まらず、島村のほうに逸れていく。遠慮したのか、そういうわけではなかったのか。
和伊が串を皿に放り出す。ものすごく悪いことをしてしまったような気がして、原田は俯き、箸袋を乱暴に折り畳んだ。
原田が通話を切って振り返ると、そこには井川が立っていた。多分、手洗いから戻ったのだろう。原田はいずみからの電話──実家から荷物が届いたという連絡だった──に出るために通路に出ていたが、その奥にトイレがあることは知っていた。
「……電話?」
井川は微かに笑みを浮かべ、原田の横で立ち止まった。
「ああ、はい。妻から」
「いいですね、新婚さん」
本当にそう思っているような声だった。勿論、ほとんど初対面の人間に何もかも見せるわけがない。そんなことくらいは分かっている。それでも、井川の言っていることは本心からだと何となく信じられるのが不思議だった。
今日分かったのは、井川は自分たちより学年が三つ上だということ。勤務している会社名。付き合っていた彼女と別れて一年と少し経っていること、それから、和伊と知り合ったきっかけくらいだった。和伊が酔っぱらって迷惑をかけ、家まで送ってもらったのだという。それでようやく腑に落ちた。今まで和伊の話に井川の名前が出てきたことがなかったのは、本当に知り合ったばかりだからだ。
「いいって言うか……いや、いいんですけど」
「ですよね」
「でも、」
原田の横を通り抜けようとした井川の前に身体をずらす。通路に身体を斜めにして立ち塞がった原田の前で、井川は驚くふうもなく足を止めた。
「でも、井川さんも今は」
「……俺は原田さんに取って替わろうなんて思ってない」
ほとんど同じ背丈、同じ体格の男。原田はどこか不思議な気持ちで目の前の井川を眺めた。島村が似てる似てるとうるさいが、顔のパーツは似ていないと思う。そう言ったら島村はちょっと考えて確かに、と頷いた。似ているのは顔ではなくて、全身のシルエットらしい。
「和伊のなかで原田さんの地位は不動ですよ。俺よりずっと大事に思ってると思う。これ、いい人ぶって言ってるんじゃなくて、悔しいけど本当のことです」
自分に似ているらしいが、中身はほとんど知らない男。そいつは僅かに首を傾げて原田を眺めた。
「和伊の中にだだっ広い土地があるとして」
「とち……土地ですか?」
間抜けな顔をしていたのだろう。原田を見て少し笑い、井川は小さく頷いた。
「そう。で、原田さんの区画もあるんですよ」
「俺の」
「そこはすごく広いんです。南向きの角地でね、他の区画よりずっと広い」
なぜか鼻の奥がつんとして、慌てて唇を引き結ぶ。理由なんて分からないが、涙目になりそうな気がして何度も瞬きする。井川はそんな原田の表情に気づいているのかいないのか、淡々と続けた。
「原田さんの区画を削りたいとも、横取りしたいとも思ってません。俺が欲しい場所は全然違うところにあるし、それに、土地はだだっ広いから」
「……」
原田は何と言っていいか分からず黙り込んだ。どこかで空調がごうごう鳴っているのが耳につく。近くの席で上がった大きな笑い声。店員を呼び出す甲高い音、食器がぶつかり合って立てる音が原田と井川を囲むように渦を巻く。
「……井川さん、俺」
「はい?」
「俺がこんなこと言うの筋違いですけど……でも」
言いかけたくせに躊躇し、口ごもった。偽善かも。ひとりよがりかも。それでも言っておかなければならないのだ、と思って口を開く。
「和伊を幸せにしないと、すごくひどい目に遭わせます!」
井川は一瞬ぽかんと口を開けて原田を眺め、弾かれたように笑い出した。冷たいとまではいかないがどこか一歩離れてものを見ているような井川なのに、そうやって笑った顔は驚くほど屈託がない。
「えっ、井川さん、俺マジっすからね! 約束してくださいよ!」
「ええ、あの、多分」
多分って何だ、と突っ込みかけた原田を手で制し、ようやく笑いを収めた井川が呟いた。
「俺はそのつもりですけど、でも、押しつけてもね」
「……」
「もし、彼がそう望むなら」
少しの間の後井川が言った。
「──戻りましょうか」
そうだ、戻ろう。
突然何もかもが落ち着くところに落ち着いた気がして喉の痞えがなくなった。
俺ができることは何もない。和伊には謝ったが、謝ったところで仕方がなかったのだと今更思う。
原田が変えられることはひとつもない。そして、和伊は変わったのだ。
今までどおりにはいかなくても、それでも原田は今まで通り、友人として和伊を想い、ひたすら大事にすることしかできないのだ。
もし和伊が望むなら、井川と幸せになればいい。井川に無理強いする気がないのなら、和伊が選んでいいのなら、選びたい道を選べばいい。
「あの」
身体を避けた原田の脇を通り抜けかけた井川が足を止めて振り返る。
「はい?」
「連絡先、教えてください!」
勢い込んで言いすぎたか、井川は笑いながらスマホを取り出した。
「多分──……でしたよね、原田さん」
「え?」
どこかで店員が皿を割り、誰かが誰かの冗談に笑っている。周りの音のせいで半分くらい聞き取り損ねたが、井川は微笑むばかりで言い直してはくれなかった。
友達追加、と呟きながら画面をタップする。
なんだかおかしな気分だが、別におかしいことは何もない。原田に背を向け席に戻る井川の背中を眺めながら、原田はゆっくり瞬きし、我に返って慌てて井川を追いかけた。
ドアを開け、先に玄関に入った井川の背中に硬いものがぶつかってきた。
「痛っ」
振り返って確かめるまでもない。頭突きしてきたのは後から入ってきた和伊以外にはありえない。
「痛えな、おい」
ビジネスバッグを上がり框に放り投げた和伊の腕が、後ろから井川の腹に回る。しがみつかれて悪い気はしないが、肉が薄い背中にぐいぐい頭を押しつけられたら結構痛い。
「和伊、痛えって」
無理矢理身体を回して和伊と向き合う。井川の背中に擦りつけていたせいで、和伊の前髪はえらいことになっていた。
「すげえ、ぐしゃぐしゃになってる」
直してやろうとしたら和伊は突然井川から身体を離し、振り返って玄関のドアノブに手をかけた。バッグを床に置いたままでどうしようっていうんだと思いながら二の腕を掴む。
強く引いたらあっさり和伊の身体が傾ぎ、そのまま井川の腕の中に倒れてきた。
「引っ張んじゃねえよ……」
若干呂律が怪しい和伊が低く呟く。
「帰ろうかなって、俺」
「財布も携帯も置いて? どうやって帰んだよ」
「知るかよ。分かんねえもん、俺だって」
和伊はかなり早いペースで飲んでいた。あんな状況になれば当然のことだ。もしかしたら、原田に対する未練は少しもないかもしれない。だが、例えそうだとしたって、井川が同席している気まずさは想像できる。
和伊の頭のてっぺんにくちづけ、髪に鼻先を突っ込んだ。明らかにさっきまで居酒屋にいましたという匂いがする。
「帰んな」
「だってさ」
「だってじゃねえ。シャワー浴びて来い、ほら」
向きを変え、腕の中の和伊をそのまま押しやる。和伊は僅かに抵抗したが、諦めたのかおとなしく靴を脱いでふらふらと風呂場のほうへ歩いて行った。
和伊が落としたバッグを拾い上げ、鍵をかけて井川も靴を脱いだ。和伊は酔っ払っているが泥酔しているわけではないし、大丈夫だろう。
スーツの上着を脱いでベッドに放り、腰を下ろしてつい溜息を吐く。原田と一緒に飲むなんて、動揺したのは井川だって同じだ。
だが、嫌な感じはしなかった。顔をつき合わせて話すのは初めてだったが、原田から悪い印象は受けなかった。和伊が原田を好きになった気持ちに共感はできなくても、理解はできる。優しそうな、そして友情を何より大事にしそうなだった。
井川はぼんやりそんなことを考えながらネクタイを解いていたが、いつまで経ってもシャワーの音が聞こえてこないことに気がついて立ち上がった。
「和伊? 大丈夫か?」
脱衣所の外から声をかけたが返事がない。
「寝てんじゃねえだろうな……入るぞ」
やっぱり返事はないし物音も聞こえず、ドアを開けたら和伊の姿がない。若干慌てて風呂場のドアを開けたら、乾いた床に体育座りで顔を伏せているスーツの男がそこにいた。
「……何やってんだ、お前は」
井川は背が高いから広さを優先して部屋を選ぶ。それでも風呂場の面積は一般的な集合住宅サイズだし、洗い場がだだっ広いとはとても言えない。和伊の身体はでかくはないが、狭い風呂場に着衣で座っているせいか、やけに窮屈そうに見えた。
「──井川」
和伊は顔を俯けたまま呟いた。酔っ払っているせいで声が枯れている。
「何だ。どうした」
井川はドアの前にしゃがんでみたが、和伊の顔は伏せられたままだった。
「俺な、」
「ああ」
「今日……原田と会って──俺」
「ああ」
「──ごめんな」
暗い声に、胃を殴られたように息が詰まった。
原田にキスされたと聞いたとき。あのときはまだ、手放せた。もしも和伊が原田とうまくいくならば、そうしたほうがいいと思っていた。平気だったわけでは勿論ないが、後から割って入ったのは自分だという自覚があったからだ。
あれからほんの少ししか経っていないのに。
まだお前の一部しか知らないのに。見ていないのに。
順番なんかくそくらえと叫ぶ胸の内の己を必死で抑えつけ、井川は奥歯を食いしばった。
頭の血が全部足のほうに下がっていく。しゃがんでいることができなくなって、井川はゆっくり床に尻をついた。
和伊が顔を上げて井川を見つめる。顔色が白っぽいのは酔っ払っているからだろうか。それとも、言いにくいことを言おうとしているからか。
「井川」
目を逸らしたかったができなかった。和伊は井川が何か言うのを待つように束の間口を閉じ、小さく溜息を吐いた。
「ごめん」
「……」
「ほんとごめん──あいつああいうヤツだから、マジで気にしなくていいから」
「あ?」
思わず声を上げたら、和伊も間抜けな声を上げて首を捻った。
「え?」
「いや、おま──は?」
「え? 何? 謝ってんのに」
「謝るって」
「だから!」
和伊は体育座りを崩して胡坐を掻いた。足首を掴み、背中を丸めて身体を前後に揺する。
「だから……原田が、お前と話したって言ってきて。お前ら二人で戻ってきた後に」
居酒屋の座席は原田と和伊が向かい合わせだった。井川の向いは島村という人懐こいやつで、話すのは楽しかったから、原田と和伊の話を全部聞いていたわけではない。
「そんで、お前に、その、俺を」
「お前を?」
「し、あわせにしろって言ったって──」
和伊はバネが弾け飛んだみたいに唐突に立ち上がった。
「でもそんなのって!」
からからに乾いた風呂場にスーツのまま仁王立ちした和伊の髪はさっきのままぐしゃぐしゃだ。酔っ払いの半眼のくせに真剣な顔をして拳を握り締めている。どこからどう見ても滑稽な姿なのに、胸が詰まって何も言えなくなった。
「そんなの、誰かに強要されることじゃねえし。それに俺、女でもねえし、お前が努力する必要なんかねえだろ? ていうか、お前だけが何かしなきゃいけないなんておかしいだろ!」
「──ああ」
泣き出す寸前の子供みたいだ。和伊は潤んだ目をきつく閉じ、手の甲でぐいぐい擦った。
「でも原田はいいやつだから、ただ俺に気を遣って……でも、ごめん……」
和伊はよろよろと風呂場から出てくると、井川の前に座り込んだ。
「お前が謝る必要ねえよ、和伊」
「でも」
「つーか、誰も謝る必要ねえ」
手を伸ばし、今度こそ髪を直してやった。ネクタイが左に曲がっているのも直しかけ、今更直す必要もないと気が付いて、両手で頬を包んで顔を覗き込んだ。
「俺は努力したい」
「え?」
「何をどうしたらいいのか分かんねえけど。まだ知らないことばっかだし──だけど、事前に全部知らなくたって構わねえだろ?」
和伊が頬に添えられた井川の手に触れる。意外なほど強い力で手首を握られた。和伊は井川よりは小さいし細いけれど、決してか弱くも儚くもないし美しくもない。
どこから見ても金曜夜、飲んだくれた後のくたびれた三十路サラリーマンで、それでも今まで好きになったどの女より、深く知りたいと願ってやまない相手だった。
「お前を幸せにしたい」
「──!」
和伊は素早く立ち上がったかと思うと、そのまま風呂場に飛び込み、壊れるんじゃないかという勢いでドアを閉めた。
「おい、和伊?」
「うるせえ、あっち行け!」
「子供かよ」
鍵がかかっていないドアは引っ張ったらすぐ開いた。和伊は狭い洗い場で一歩下がり、壁の鏡に背を押し付けている。
「何で逃げんだ」
「逃げてねえけどっ」
「じゃあ何してんだ」
「いやちょっと、お前が変なこと」
「変なことは言ってねえよ。なあ、あいつは多分、お前のこと好きだったと思うぜ。初恋の相手みたいな、そういう感じで」
和伊は目を瞠り、口を開けたまま井川を凝視した。
原田本人は気づいていなかったのだろう。教えてやったが聞こえなかったらしいから、結局二度は言わなかった。無理に自覚させたからって、いいことがあるわけじゃない。原田にも、勿論自分にも。
「俺はそんなふうにはできない。お前のこと、絶対に傷つかねえように、壊れ物みたいに扱えない」
和伊の腕を掴んで風呂場から引っ張り出し、指先で頬を辿る。和伊の息が指に触れた。
「でも、大事にする」
硬い歯列に指を這わせ、舌に触れる。襟元から手を突っ込み、剥がすようにジャケットを脱がせて床に落とす。ワイシャツの裾をパンツから引っ張りだし、ベルトに手をかけて和伊の顔を覗き込んだ。
「なあ、俺は知りてえ」
「──何を」
「お前と俺とで、幸せになれるかどうか」
初めて会ったときから、小さなささくれみたいに引っかかって無視することができなかった。
電車で居眠りしてよりかかってきただけの酔っ払い。どんな事情を抱えたやつだろうと、和伊でなければ、手を出したりしなかった。
灰皿をぶん投げ、泣き出しそうな顔で傷ついたりしないと吐き捨てた男を抱きしめたいと思ったりしなかった。
あのときと同じように、和伊の瞳がじわりと潤む。だが、涙の理由は多分違う。違うと思いたい。
「知りたくねえか?」
「……」
低く、まるで動物の威嚇のような不穏な音を漏らした和伊は眉間に刻んだ皺を深くして、歯を食いしばって頷いた。
ジャケットの中に手を差し入れ、ワイシャツの背を抱き寄せキスをした。深く貪りながら腰を押し付ける。充血した部分が触れ合う刺激に和伊の舌がひくりと震えた。
後ろには支える壁もなければベッドもない。不安定に身体を揺らす和伊の瞳は、もう揺れてはいなかった。
獣のようにベッドに這い、大きく広げた和伊の脚の間。滴るローションと体液がシーツに小さな水たまりを作っている。細い糸が和伊の先端と水たまりを繋いでいて、風に吹かれる蜘蛛の糸のようにゆらゆら揺れた。
「──あ」
ゆっくり奥まで押し込むと、和伊の背中がしなって筋肉と背骨のかたちが浮き上がった。枕に額をつけた和伊は目を閉じていた。腕と額で支えた上半身はほとんど崩れ落ちかけ、井川が抱えた腰だけが高い位置にある。
「井川──い、ぁあ……」
汗ばんだ背中がダウンライトに照らされ微かに発光して見えた。突かれる度、和伊の背中がうねり、陰影がかたちを変える。左の肩甲骨に黒子があったが、気づかなかった。そういえば、意識したことはなかったが、今まで後ろから抱いたことがなかったかもしれない。こうやって小さなことを知っていくのだと思って、嬉しくなった。
「ああ、あ」
覆いかぶさりながら肩口に噛り付いた。体重を支えていた腕が折れ、突っ伏した和伊を抱きしめて圧し掛かる。和伊の頭を抱えて耳朶を噛み、細い腰に腕を回す。重なる身体の隙間をなくしてしまいたくて、全身を擦りつけるように押しあてた。
抜き挿しが激しくなるにつれ、和伊の声が掠れ、長くひきずるような悲鳴に変わる。
飲み込まされたものが何か分かっているのか、いないのか。蕩けそうな顔で腰をくねらせ喘ぐ和伊の熱い頬に頬を押し当て、井川は荒い息を吐いた。
傷つけるつもりはないけれど、意図せずそうしてしまうこともあるかもしれない。
そのときは、俺に向かって思い切り灰皿を投げつけてくれ。ひとりきりで酔ったりしないで。
幸せにしてみせろと、胸倉を掴んで揺さぶるくらいの気持ちでいてくれ。
「和伊──」
「井川、俺……」
湿った吐息が唇に触れ、濡れた睫毛が重たげに持ち上がる。
「……知ってる。お前と俺とで──」
和伊はまっすぐに井川の目を覗き込み、幸せそうな顔で笑った。
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