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慎二は、2階の部屋からあくびをしながらリビングへと出た。
「母さん……?」
しかし、母の姿はそこにはなかった。
食卓の上には、ラップに覆われたハムエッグ、その横に、『パンとサラダは冷蔵庫です。母さんは、久美ちゃんとショッピングに出かけて来ます』とメモがあった。
夏休みに入って1週間。慎二は、気ままな自由を満喫していた。
先に夏休みに入っていた大学生の姉をずっと羨ましく思っていたが、やっと、自分も味わえる開放感。
まずやりたかったことは、夜更かしして、朝遅くまで寝ること。そんな些細なことでも、十分、充実しているのだ。
しかし、さすがに、今日は寝過ぎたか……
午前11時をとっくに過ぎ、すでに高くなった日差しがレースの遮光カーテンに眩しく反射している。顔を洗い、ボサボサの髪を整えた。
慎二は、母のメモ通り、流れ作業のように冷蔵庫からサラダを取り出し、パンをオーブントースターに乗せ、牛乳をグラスに注ぐ。
こんがり焼けたトーストパンを頬張りながらテレビのリモコンに手をばし、なんとなくテレビのスイッチを入れてみた。目的もなく、チャンネルを次から次へと変え、退屈で騒がしいだけの内容が流れて行く。すぐに飽きて、電源を落とした。
いつもなら、念入りに見る新聞のテレビ欄もさらりと見る程度だった。
感情に蓋をしているせいなのだろうか。
慎二は、他のことへの興味までもが薄れて行くようだった。
ただ黙々と食べ、黙々と牛乳を飲む。トーストのカリッと音がやけに響いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「シン、おみやげ買って来たよー、カツサンド食べなーい?」階下から姉久美子の呼ぶ声がした。母と姉が帰って来たらしい。カツサンドと聞いて、すぐにあの店だとわかる人気店の「カツサンド」だ。厚切りのトンカツに、サクサクの衣。
慎二は、昼食と朝食を一緒に取ったせいもあるが、姉の言葉に触発されてお腹が酷く空いているのに気づいた。
「おかえり」
慎二がリビングに顔を出すと、母と姉は、ご満悦といった感じで買い物袋から戦利品を出していた。
「シン、はい、おみやげ。お昼食べてないでしょ」と姉の久美子は、慎二の顔を見るなり、にこやかに「ケーキもあるわよ」とお気に入りの洋菓子店のロゴが入った紙袋からショートケーキを小皿に取り分ける。
一気に食卓が賑やかになった。
「サンキュ。うまそう、ちょうど、お腹すいてたんだ」姉は、母とのショッピングを思う存分楽しんで来たのだろう。鼻歌を歌いながらティーカップを戸棚から出し、ティーポットから紅茶を注ぎ入れる。
3人揃って平日の午後にゆったりとしたティータイム。夏休みってホント最高だなと思う。
「頂きます……」慎二は、カツサンドを頬張りながら、華やいだおしゃべりが続く母と姉の様子を微笑ましく眺めた。
よくもまあ、 途切れずにこんなに話すことがあるもんだ…… と母と姉に感心していると、「そう言えば、ユウくんと会ったわよ」と母に急に話題をもちかけられて、喉が詰まりそうになった。
「シン、大丈夫?」
「うん……」咳き込みそうになった自分の背中を姉が摩る仕草をする。
続けて母は、「後ろから、おばさん、久美子さんって声をかける人がいるなあって振り返ったら、ユウ君だったの。練習試合に行くところだって言ってたわね」と紅茶を啜りながら姉に相槌を求めている。
「朝から、偉いね、夏休みなのに…… 」と姉が凄いと褒め顔でショートケーキを口にし、「でも、それだけバスケが好きなんでしょうね。エースだしね」とひとりで言ってひとりで頷きなら紅茶を啜る。
慎二は、優斗の話になって、適当に相槌を打っていると、「あんなにカッコいいとモテるんだろうなあ……」と姉の何気ない言葉に表情が強張りそうになった。
今まで優斗へラブレターの橋渡しをされた数々。
確かに、そうだと大きく同意したかったが、慎二はショートケーキを大きく4、5口で黙々と食べた。
「近々遊びに行きますからって、シンによろしくって言ってたわよ」と母からもらった言葉は、慎二にとっては、とどめの一撃だ。
「うん……」とつい歯切れの悪い返事になってしまった。誤魔化すように、ぬるくなったダージリンティーを一気に飲み干した。
「シン」と母がお代わり入れようかとジェスチャーでティーポットを持ち上げた。
「ああ、もういい。美味しかった、ごちそうさま」とケーキ皿とティーカップを重ねて立ち上がった。
キッチンへと運び終え、2階の部屋へと向かうその背後では、母と姉は別の話題で楽しくおしゃべりを続けていた。
早く心の整理をしなきゃ——
慎二は、ただ焦るだけの自分に、小さくため息をついた。
夏休みに入って10日たったある日の朝、携帯の着信音が鳴った。
優斗からだった。
『今日、昼過ぎにそっちに行くから、よろしく! 借りていた漫画も返すな』とあった。
慎二は、自分の都合は聞かないのかよ、と少しムッとして、『今日、出かける用事があるから。漫画は姉さんが読みたいと言ってるから母さんに預けておいてくれ』と、少し冷たいかもと思ったがそのまま返信した。
いつまでこうしているんだろう。
優斗をいつまでも避けるわけにはいかないことはわかっている。またそういう自分も本当は嫌いだった。
慎二は、携帯を机に無造作に置き、ため息をついた。
今はただ、もう少しだけ、優斗と会うのを引き伸ばしたい。
せめて、夏休みの間だけでも——
よく『時間が解決する』という。
淡い期待かもしれないが、時間が経てば優斗の気持ちを、きっと、整理できる、そう信じてみたいと思った。
新学期からは、優斗と気軽に話せる今まで通りの親友に戻りたい。そして、高宮とのことも自然な気持ちで祝福できるといい。
そう、心に強く願っていた。
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