01 ● ビールを飲む女

7/9
前へ
/152ページ
次へ
   まあ、別にいいやと思った。  無駄な挨拶をしたあと、頭を掻きながらトイレのドアを閉めた。にぎやかな居酒屋の雑音が聞こえてくる。すぐそこに、調理場の様子が見えた。調理場で豚串を焼いている中年オヤジの背中が見えた。白いシャツは汗で濡れている。  まだ乾いていない手をジーンズのポケットに突っ込み、歩き出そうとしたときだった。閉めたばかりのドアの向こう側から音がした。鈍い音だった。何かが物にぶつかる音。  次いで、おかしな音が聞こえた。なんと表現すればいいか分からない。耳をすませなければ、聞こえない、ささいな音だった。  どうも気になった。  ドアの向こうのトイレでなにかが起きている。酔っ払いの路子が何かをしでかしている。  舌打ちして、もういちどドアに身体を向けた。油や色んな汚れで黄ばんでしまったドアに。 「佐々木さん?」  路子の名字を口にしてみる。応答がないので、さらにドアをノックしてみる。薄っぺらいドアがそのたびに振動した。 「佐々木さーん? 大丈夫ですかー?」  もしかして、吐いているのかもしれない。さきほどの路子の顔を思い出す。飲みすぎたというような、顔色の悪い、いかにもだるそうな表情を。  どうすればよいか分からなくて頭を掻いた。女性がいるトイレにむやみに入るものではない――と困っていたら。  トイレの中からうめき声が聞こえてきた。  うー。  あー。うー。  酔っ払いのだらしない声だった。  もういちど頭を掻いた。店内の暖房が効きすぎてあつい。額から汗が出ているような気がする。  油でべたついたドアノブに手をかけた。回すと、ドアが簡単に開いた。鍵はかけてないらしい。わずかに開いた扉から、トイレの様子が少しだけ見えた。中は静かだった。蛍光灯のインチキめいた光が黄ばんだ壁を照らしていた。  もう、いいやと思った。 「佐々木さん、すいません、開けます!」  ドアを全開にした。  真っ先に路子の姿が飛び込んできた。グレーのタイルの上に寝そべっている路子の姿が。長い髪がトイレの床に広がっている。  マジかよ、と思った。  トイレの床で寝ている女を見たのは初めてだった。
/152ページ

最初のコメントを投稿しよう!

168人が本棚に入れています
本棚に追加