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まあ、別にいいやと思った。
無駄な挨拶をしたあと、頭を掻きながらトイレのドアを閉めた。にぎやかな居酒屋の雑音が聞こえてくる。すぐそこに、調理場の様子が見えた。調理場で豚串を焼いている中年オヤジの背中が見えた。白いシャツは汗で濡れている。
まだ乾いていない手をジーンズのポケットに突っ込み、歩き出そうとしたときだった。閉めたばかりのドアの向こう側から音がした。鈍い音だった。何かが物にぶつかる音。
次いで、おかしな音が聞こえた。なんと表現すればいいか分からない。耳をすませなければ、聞こえない、ささいな音だった。
どうも気になった。
ドアの向こうのトイレでなにかが起きている。酔っ払いの路子が何かをしでかしている。
舌打ちして、もういちどドアに身体を向けた。油や色んな汚れで黄ばんでしまったドアに。
「佐々木さん?」
路子の名字を口にしてみる。応答がないので、さらにドアをノックしてみる。薄っぺらいドアがそのたびに振動した。
「佐々木さーん? 大丈夫ですかー?」
もしかして、吐いているのかもしれない。さきほどの路子の顔を思い出す。飲みすぎたというような、顔色の悪い、いかにもだるそうな表情を。
どうすればよいか分からなくて頭を掻いた。女性がいるトイレにむやみに入るものではない――と困っていたら。
トイレの中からうめき声が聞こえてきた。
うー。
あー。うー。
酔っ払いのだらしない声だった。
もういちど頭を掻いた。店内の暖房が効きすぎてあつい。額から汗が出ているような気がする。
油でべたついたドアノブに手をかけた。回すと、ドアが簡単に開いた。鍵はかけてないらしい。わずかに開いた扉から、トイレの様子が少しだけ見えた。中は静かだった。蛍光灯のインチキめいた光が黄ばんだ壁を照らしていた。
もう、いいやと思った。
「佐々木さん、すいません、開けます!」
ドアを全開にした。
真っ先に路子の姿が飛び込んできた。グレーのタイルの上に寝そべっている路子の姿が。長い髪がトイレの床に広がっている。
マジかよ、と思った。
トイレの床で寝ている女を見たのは初めてだった。
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