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路子はうー、うー、と唸っていた。眉間にしわをためて床の上で寝返りを打っている。綺麗な髪の毛がそのたびについていく。便座に行こうとしたが、酔いに勝てずつぶれてしまった、という状況だ。個室ドアの前で小さな体が丸くなっていた。
「ちょ……っと。佐々木さんさあ。きったねえなあ」
便所の床なんかで寝るなや。
頭を掻きながら路子に近づいた。
「だ、れ?」
意識はあるらしい。
目をうっすら開けて、路子がこちらを見た。
「アルバイトの、新井です」
「新井くん?」
路子ががんばって目をあけようとしているが、身体は動かせないようだ。また「うー。あー」と唸りながら、寝返りをうちだした。小さな体と綺麗な髪の毛がグレーのタイルの上で落ち着きなく動く。
だからトイレの床でゴロゴロすんのは、汚いからやめてほしい。
「どうして?……なんで?……どうして新井くんがここにいるの?」
路子が途切れ途切れに言う。それはこっちが聞きたいところだ。
(なしてあなたは、こんなところで寝てしまうのですか?)
やっぱりだ。さっきトイレのドアですれ違った時、まったくこちらの存在には気づかなかったということか。
女の介抱なんてしたことがない。どうすればよいか戸惑ったが、その小さな身体をまず起こしてやることにした。
しっかりしてくださいよ、佐々木さん。そう言いながら、路子の背中に手を回して身体を起こしてやった。右手がずっしり重い。彼女には起きてやろうという気はないのだろう。
思いっきり力を入れて上体を起こしてやる。だらけきった路子の顔が近づき、ビールくさい息が顔にかかった。
最悪だ。
反動で、路子の頭が自分の肩にのっかった。ことんと。
「あーらーいー」
路子が腕を伸ばし、首に両手をまわしてきた。ぎょっとした。鎖骨の部分に顎をのせてくるのでくすぐったかった。頬には彼女の髪の毛がぶつかっている。
ビールのにおいと、甘い香りが交じり合っている。路子からしてくる。
どうなってるんだ、と思った。背中にまわしたままの手は引っ込みがつかない。手を離してしまったら、路子がまた崩れてしまうのではないかと思った。
「あーらーいーのーばーかー」
路子が耳元で囁く。
なしてバカ呼ばわりされなければならぬのだ。路子のような酔っ払いに。
「あーらーいー」
路子がまた囁く。首にまわされた両手は、まだ離してくれない。溜息をついた。
「はあ、もう、なんですか?」
呆れながら返答すると、消え入りそうな声が聞こえた。せつなそうな声が。
たすけて。
路子がいっそう強く、首を抱きしめてきた。
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