もう二度と届かぬ言葉

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母に愛されたかった。 けれど、母の視線の先には常に弟がいた。 だから僕は我慢した。 泣くのも、怒るのも、「愛して」と訴えるのも我慢した。 そして頑張った。 自分が、母にとっての理想の息子であるように。 勉強に打ち込み、好成績を叩き出し、礼儀正しく、規則正しく。 家では率先して家事の手伝いをして……。 誰もが、僕を『優等生』だと言った。 けれど……。 母は僕を見ない。 「お兄ちゃんは手が掛からないから」と。 母の視線は、やっぱり弟に向いていた。 弟は我慢しなかった。 泣きたい時に泣いて。 怒りたい時に怒って。 甘えたい時に甘えて。 勉強もしない。 好きなこと、やりたいことばっかりやってる。 家事の手伝いなんか絶対にしない。 誰もが……父も、母ですら。 「お兄ちゃんはあんなにも優秀なのに、弟は……」 と、口にする。 けれど。 愛されているのは弟だ。 母の視線が、僕に向くことはない。 薄々気づいていた。 僕が頑張れば頑張るほど。 我慢すれば我慢するほど。 母の愛は遠ざかってゆく。 その事実に。 でも。 僕には愛される方法がわからなかった。 頑張ること、我慢することしか、僕は知らなかった。 いや、違う。 僕は母から嫌われるのが怖かった。 頑張っていない自分の姿を曝すのが怖かった。 我慢していない自分の姿を曝すのが怖かった。 感情を曝すことが、本音を曝すことが、何よりも怖かった。 弟のように、自分を飾らず素直に生きれば愛されることを、本当は知っていた。 でもそれが、僕には何よりも怖かった。 臆病な僕は、『母の愛』を代わりに与えてくれる誰かを探した。 『母の愛』を与えてくれるのは母だけ。 代替え品で満足できる筈がない。 それを知りながらも僕は、代替えの愛を求めて彷徨った。 「だからさ、アンタが欲しいのは親の愛なんだって。恋愛とか結婚とか言う前に、親にちゃんと『愛して』って言っといで。本音で親と向き合っておいで。衝突しといで。喧嘩しといで……思いっきり」 彼女は、口癖のようにそう口にした。 僕は必死に話を逸らした。 彼女の口にする“それ”は、僕にとってはある意味死よりも恐ろしいものだから。 彼女は話を逸らす僕に、溜め息を吐くだけだった。 深追いすることはなかった。 深追いしない彼女に、僕は安堵していた。 そして。 文句を言いながらも、この先ずっと当たり前のように、彼女は隣にいるのだと思っていた。 何だかんだ言っても彼女は結局僕を放ってはおけないのだと。 彼女は空気のように、常に僕の傍らに居るのだと。 信じて疑わなかった……あの、“最後の日”まで。 「あたし、結婚決まった」 その言葉に、僕は固まった。 「な……んで…………?」 「だって、アンタとあたしはつき合ってないじゃない?」 「…………」 「あたしはアンタに、親と向き合って来いって言った。親と本音で話して来いって言った。親に『愛して』って言って来いって言った。衝突して来い、喧嘩して来いって。アンタがそれを実行したら、交際を考えるって」 「…………」 「3年、アンタは逃げ続けた。でもさ、女にはタイムリミットがあるんだよ。妊娠出産できる時間は限られてる……もう、あたしはアンタを待てない」 「…………」 「……さよなら」 思い返せば、彼女は僕の唯一の理解者だった。 僕の弱さ、臆病な僕の本性を見抜いて、それでも愛想を尽かすことなく、僕の傍にいてくれた。 彼女との関係を壊したのは僕。 逃げ続けた僕。 僕は……最初で最後の理解者を、こうして失ってしまったのだ。 夜の街を彷徨い、ネットの海を彷徨い、僕は愛を与えてくれる理解者を探す。 もう彼女のような女性は現れないと知りながら。 母は認知症を患ったと父から連絡を受けた。 僕の本音は、『愛して』の言葉は、もう母には届かない。 僕はもう、母への執着という名の檻から出られないのだ。 愛して────。 たった四文字の言葉が、声として発せられないまま消える。 僕は夜の街の雑踏の中、涙を流しながら彷徨いていた。 夢遊病者のように。 狂人のように。 何もかも、全て、遅すぎたのだ……。 《終》
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