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寺の中に入ると高次は力つきて倒れた。体が動かない。声をだす力もなく助けを呼ぶこともできない。瞼は重く閉じてしまった。
しかし、高次は目の前に誰かが立っているのがわかった。
「腑抜けめ。いつまで恥をさらすのか」
目の前にいる男が喋った。「無礼な」と言おうとしたが声が出ない。
「ぬしのような輩は京極だと認めん」
何を言う、お主は誰だ、と思うが声の主の顔は見えない。まるで自分が京極だと言わんばかりの物言いだ。まさか、これが京極の先祖の霊か。
「女の力で生き長らえるとはもう京極家も終いじゃな。いや、さっさと終わらせよ」
高次の顔が硬直する。
「お主の妹もまたよ難儀よのお。兄弟そろって不名誉か」
ーーふざけるな! たかだか霊の分際で何がわかる!
その言葉は逆鱗にふれた。
温和な高次でさえ甘受できる言葉ではない。
妹の竜子が秀吉から助けてくれたとき、二人の間だけで言葉を交わしていた。
『このような時代、人が人である価値がどこにありましょう。私達、女は道具のように使われ、また男達は戦があるたびにゴミのように命が捨てられていく』
『竜子。言うな。時代を恨んでも仕方ない。どんな形であれ、生きることにこそ意味があるのだ』
『お兄様。私はこのような生き方をするのなら死んだ方がましでございます。私の夫は秀吉に殺されました。何が嬉しくて秀吉の妻にならなければいけないのでしょう。ただ悲しいだけではないですか。いっそのこと死にたい』
『違う。違うぞ竜子。どんなに悲しくても、どんなに醜くても、どんなに恥をさらしても、泥水をすすってでも生きる。それが人の価値ではないのか』
『ぐすっ。ぐすん。お兄様がそこまで言うのなら生きましょう』
『そうだ竜子。生きていればいつか報われる。耐え忍び生きようぞ。わしも生きる。約束だ』
ーーみな家の存続の為に奮闘しているのだ。京極家の為を思って生きている。だからわしも恥をかいても生きることにしたのだ。
「この恥さらしめ。蛍大名か。笑えんのお」
声は嘲笑をおびている。高次はどれだけ醜くでも生きていくと決めていたはずなのに、悔しいという思いが胸に溢れた。
竜子は強く生きているはずだ。だが高次はどうだ。本心では自分の生き方に自信がなかった。とうの昔に誇りなど捨てたつもりなのに自尊心が残っていた。
高次は怒った。自分自身の不甲斐なさにである。もっと強ければ、もっと勇気があれば、もっと信頼されていれば。高次は自分に無いものを数え始める。本当はもっと誇り高く生きたい。
高次の周りにいる者達はどうなのだろうか。高次と同じで惨めな思いを隠しているのだろうか。
「うぬの顔など見たくない。とっととくたばれ」
その一言と共に、声の主の存在は感じなくなった。
高次は何も言い返せなかった。
ーーくそっ……。
全国の諸大名からばかにされ、町人や庶民からばかにされ、僧ですらばかにして、死人からもばかにされた。門斎も高次をばかにしているのかもしれない。
高次は、それでもわしは生きている、と胸を張れなかった。ずっと目をそらし続けていた。誇りをなくして生きることはこんなにも辛いのだ。
かすれゆく意識のなかで涙が流れた。何があっても生きていくと決めたのは高次なのに、そう約束したのは高次なのに、高次の目からはとめどなく涙が流れていた。感情は渦巻き、もはや何の涙なのかもわからず、漠然とした孤独を感じていた。
ーーわしは孤りだ。誰からも信頼されておらん。
高次は体力の限界を迎えている。涙が最後の体力を使いきり、高次は気絶した。
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