三河武士

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「もうよい、下がれ。ここは儂が行く」  人の群れを掻き分け、一人の精悍な男が彦右衛門の前に立ち塞がった。 「鈴木重朝と申す。鳥居彦右衛門殿。誠に天晴れな男じゃ。その首、わしがもらいうける」 「ほう。鈴木重朝といえば、雑賀孫一*の名を継いだものではないか。相手に申し分ない。来い!」 「いざ参る!」  彦右衛門はまた片足立ちの姿勢をとっている。重朝は彦右衛門めがけて一直線に駆けた。彦右衛門は落ち着きを払い、重朝が間合いに入った刹那、横に斬った。しかし、重朝は跳躍していた。刀は空を斬る。重朝は着地と同時に彦右衛門の肩から斜めに斬った。体重の乗った一撃は甲冑ごと体にめり込んだ。  重朝が刀を引き抜くと、おびただしい鮮血が天井に向かって吹き付けられた。 「くっ、もはやこれまでか。ぬしに褒美をやるは。わしの首をもって名誉とせよ。切腹する。介錯を頼む」 「鳥居彦右衛門、最後まで見事な男よの」  皆その光景を固唾を呑んで見守っていた。武士にこれほどの名誉があるか。主君のために命を捧げた彦右衛門の人生は、武士の鑑そのものであった。血だらけの彦右衛門は腹を切った。 「介錯する。はっ!」  彦右衛門の首が跳び、転がった。三転して止まる。彦右衛門の目には血の海が映った。  なぜ、奪い、奪われ、騙し、騙され、いがみ合い、殺し合い、血を流してきたのか。彦右衛門には問う必要などない。この血は礎なのだ。三河武士の血は一人として無駄な血などなく、この犠牲の上に、家康の目指す天下泰平の世が待っているのだ。     ーー家康様が天下人になられた……。  彦右衛門は死ぬ間際、理想郷を見た。その幸せの中でこと切れた。 「三成殿に知らせよ。勝鬨(かちどき)を上げようぞ」重朝の声が静まり帰った城内に響く。  八月一日。伏見城に籠城した東軍の兵は一人残らず死に、落城した。しかし、火の手は休まることを知らず、延々と燃え続けている。 ※雑賀孫一は人の名前ではなく、雑賀集棟梁が代々継承する通り名
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