大阪着陣

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「大垣城へ行くとして、籠城戦にならんければ良いが……」  宗茂の骨の髄には、籠城戦の恐ろしさが染みている。宗茂が怖がっているわけではない。兵一人一人への憐れみの言葉であった。  というのも、実父紹運は籠城戦の末、壮絶な最後を遂げていた。忠義心を全うする戦いであり、息子宗茂を守るための戦いでもあった。  天正十四年(1586年)。九州。島津家の総攻撃を受けていた大友軍(紹運は大友配下)は豊臣秀吉の傘下になる変わりに援軍を請うた。しかし、島津家の猛攻は激しく、紹運のいる岩屋城は2万の大軍に攻められた。  紹運は息子宗茂を背後の立花山城に移させ、自分は763名の兵を率いて島津軍と真っ向からぶつかった。紹運は籠城戦に14日耐え、その後一人残らず討ち死にした。このおかげで立花山城にいた宗茂は、豊臣の援軍が間に合い九死に一生を得た。  この時、紹運の残した言葉がある。 『主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ』  その精神は間違いなく息子の宗茂に届いていた。 「宗茂様……。もしや岩屋城を思い出しておりますか?」 「はっはっは。違うわ。大垣城がどのような城か思いを巡らしておっただけじゃ」
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