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それを見てしまった私はもう、頷くほかなかった。その時の家族の喜びようと言ったら……きっと、私が産まれた時よりも喜んでいたに違いない。
「もう決まった事だから」
「でも……!」
それでも、琴音さんだけは私に親身になってくれた。その優しさがじんわりと体中に染みわたっていく。……それだけで、もう十分だった。これ以上一緒にいると、彼女に本音を洗いざらいぶちまけそうになってしまう。私は涙をこらえて、琴音さんを見た。彼女の目は、もうほんのりと潤んでいた。
「ありがとう、琴音さん。こんなに心配してくれて。私、もう行かなきゃ。受付に荷物出しておかないと……」
琴音さんは強い力でギュッと私の手を握る。
「いい、莉乃。莉乃の家庭のことで、私が口を出せる立場じゃないってことはよくわかってる。でもね、何か困った事があったら、すぐに私に連絡するんだよ」
「うん、ありがとう」
まだ仕事が残っているという琴音さんは、会社の玄関まで私を見送ってくれた。
私はその足で、携帯ショップに向かう。今鞄の中に入っているスマートフォンを、解約するために。きっと、もうこれを使う事はない。今までの人間関係全て断ち切らないと、すぐ誰かに甘えてしまいそうになる。自分の弱さは、私が一番よく分かってる。
「ありがとう、琴音さん」
最後に、彼女と一緒に撮った写真を開いた。私が行ったことのないようなところに、琴音さんはよく連れて行ってくれた。お洒落なカフェやバー。それに、クラブというところにも。その思い出全てを胸の中に大事に仕舞い込んで、私はその日、全てを断ち切った。
それなのに、こんなことになるなんて……夢にも思わなかった。
目の前には、真っ黒な服を着ている人たちが慌ただしく動き回っている。
「あの爺さん、元気そうだったのにな」
「こればっかりは、どうすることもできないからね……寿命ってやつよ」
私の視線の先には、たくさんの花で埋め尽くされた祭壇。その中央には、私が嫁ぐはずだった……斉藤さんの【遺影】が飾られている。
――今日は、私が嫁ぐはずだった斉藤文徳の葬儀が執り行われている。
会社を辞めた次の日、私は早速、斉藤さんの元に小さな旅行用のキャリーケース一つで引っ越しをした。玄関で私の事を出迎える彼は満面の笑みを見せ、私の手を両手で握り……「さすが、若いと肌がすべすべだ」とか「柔らかいなぁ」とか言いながら、何度も擦った。とても嫌だったけれど、ここで我慢しないと……家族が路頭に迷ってしまう。私は振りほどくことも出来ず、その気持ち悪さに耐えて、ただ顔を伏せて時間が流れるのを待っていた。
もういい年だし大げさな事はしたくないと斉藤さんが言っていたため、結納もなく、結婚式や披露宴をあげることもなく、ただ婚姻届けを出すだけの結婚をすることになっていた。
この結婚には斉藤さんの二人の子ども達(と言っても、お子さん達の年齢は私の両親に近い)はとても反対していた。
私がこの家に引っ越してきてから、同居している息子の文明さん夫婦だけではなく、結婚して家を離れている娘・優子さんも毎晩この家に訪れては斉藤さんの説得していた。
毎晩のように繰り返される言い合いをこっそり聞きながら、「反対して当たり前じゃない」って思っていた。私だって、祖父が若い女性と結婚したいなんて言ったら反対するに違いない。
しかし、強引に斉藤さんは私との結婚を押し切った……はずだった。
「莉乃さん、何もしなくていいから。あちらで座って待っていてくれるかしら?」
目の下にうっすらと隈を作った優子さんが、葬儀場の中を右往左往していた私にそう声をかけた。その声音は優しさで覆われているけれど、奥には鋭い棘があるのを感じる。
「でも、私だけ何もしない訳には……」
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