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私の肩を掴んだのは、実家を出てから一度も会っていなかった祖父だった。でも、その様子は以前とは全く違う。私が実家で暮らしていた頃は、つぎはぎだらけの作業着やボロボロになった部屋着ばかり着ていた。でも今目の前にいるのは、皺ひとつないシャツとこぎれいなジャケットを着た、今まで見たことのない祖父の姿だった。
「元気そうで良かったよ、莉乃」
「おじいちゃんも……良かった」
久しぶりに話すと、上手く言葉が出てこない。私の表情はこわばっているのに、祖父はニコニコと笑っている。そんな柔らかい表情を見るのは、子どもの時以来な気がしていた。
「莉乃、話があるんだ。時間あるか?」
私はそのまま頷き、カゴを戻して祖父の後を追った。祖父が足を踏み入れたのは、スーパーの近所にある喫茶店だった。私は何度も、その看板と祖父の背中を交互に見比べる。だって、おじいちゃんがこんなお店に入る姿を見るのは、生まれて初めてだったから。いつも贅沢は敵だと話していて、コーヒーを飲むときはドラッグストアで安売りになっていた缶コーヒーか、何度も抽出を繰り返してうっすら色がついた味のしない液体ばかり。喫茶店でメニューを見ながら、コーヒーだけじゃなくて軽食のサンドイッチまで注文するなんて、私の記憶の中にいる祖父と今目の前にいる祖父では、大分姿がかけ離れていた。
「……大丈夫だったの? あの後」
私はアイスティーだけを注文する。そして、恐る恐る口を開いた。
「あの後?」
「ほら、斉藤さんが亡くなった後……」
祖父は苦々しい表情を見せる。
「そりゃもう、大変だったさ! 葬式に行ったら門前払いされてしまうし、うちの孫娘にいくらか遺産をくれるのか聞いたら『一銭もやらん!』なんて言い返されて……これじゃ、話が違うと食い下がったけどな」
斉藤さんとの約束。それは私が彼の元に嫁ぐ代わりに、実家の工場に融資をしてくれること。しかし、その約束を交わした斉藤さん本人が亡くなってしまったなら、それは破棄されてしまう。当たり前のことだと思っていたけれど、祖父はそのことにあまり納得していないようだった。
「あの息子たちだって、父親と縁が深かったうちを支援してくれたっていいのにな。それこそ、莉乃がうまい事あの家に残ってさえくれていれば――例えば、あのバカ息子の愛人になってくれるとか、さ――良かったのに、娘になんて『明日にでも孫娘さんお返ししますね』なんて言いながら俺に塩をかけてきたんだぞ。斉藤は、どんな躾してきたんだか」
テーブルの上に置かれたコーヒーを半分ほど飲み、サンドイッチに口を付けた。私は戸惑いながら、ほんの少しだけアイスティーを飲んだ。
「だから、どうしたもんかと考えてたんだよ……借金取りは毎日のようにやってきて恫喝していくし、莉乃が戻ってきたら早く働いてもらわないと。そう思っていたのに、一向に帰ってこなくてな」
「……ごめんなさい」
私が小さく頭を下げる。
「いや! 戻って来てくれなくて良かったよ、お前、いつの間にあんな金持ちに見初められたんだ? 加州さんと言ったか?」
突然出てきたその名に頷くと、祖父は満面の笑みを浮かべた。
「その加州さんの会社がな、うちに融資してくれるって言うんだよ。とりあえず借金を全部返すことができる金と、仕事までくれたんだ! そのおかげで、うちは今とても順調なんだよ!」
ようやっと、私は胸を撫でおろすことができた。良かった、私の役目は無事に果たされたんだ。私の頬にも、笑みがこぼれた。冷たいだけだったアイスティーがとても美味しく感じられた。
――祖父があんなことを言うまでは。
「それでな、莉乃」
「うん、なあに?」
「あの人から、もう少しだけお金貰えないか聞いてもらえないか?」
「……え? ど、どうして? 今だって工場も順調で、借金だって返すことができたんでしょ? どうしてこれ以上お金が必要なの?」
「でも、そういうのはいくらあって困るものじゃないし……」
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