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 私には、普通の人みたいな幸せを味わえる日なんて来ないと思っていた。  あの人に出会い……彼の愛に溺れるようになるまでは。 *** 「莉乃(りの)!」  職場においてあった私物を鞄に詰めていると、会社の同期で一番の仲良し・琴音(ことね)さんが飛び込んできた。高校卒業してすぐ入社した私と、大卒入社の琴音さん。年齢は少し離れているし、ぼんやりしていて引っ込み思案な私と打って変わって、琴音さんはずばり物を言うタイプだけど、何だかお互いに気が合ってずっと『友達』だった。  でも、その関係も今日で終わってしまう。私は目の奥が痛くなっているのがバレないように、いつも通りふにゃりと笑って琴音さんを見た。 「今人事に聞いたんだけど、莉乃、会社辞めるってホント!?」 「本当だよ。今日で退職するの、ちゃんと琴音さんに話せなくてごめんなさい」 「どうして? 家にお金を入れるために、頑張って働くんだっていつも言ってたじゃない。実家の事業だってうまく行ってないってこの前話してたのに!」  私の実家は、いわゆる町工場の一つ。祖父と父親、そしてわずかな従業員たちで細々と精密機器に使う小さなネジを作っていた。けれど近年、うちで作るよりももっと安価な他国製のネジがどんどんシェアを伸ばしていき、その分、私の実家への受注は急激に減っていった。祖父と父は工場を守るために、長年働いていた従業員に辞めてもらい、生活費を削って工場の経営に当てたり、私のお給料も入れたりしてみたけれど……そのいずれも、焼け石に水だった。  銀行からの融資が止められ、今では逆に今までの借入金の返済を求められている。これから借金返済のために、どんどん仕事を頑張らないと……私はそう思っていたし、琴音さんにもお酒の席で、酔いに任せてそんな話を打ち明けていた。  でも、もっと仕事を頑張らないと――そんな事を考えていたのは私だけだったみたいだ。家族には、もっと違う考えがあった。 「……私、結婚するんです」 「はぁっ!? け、結婚? そもそも、莉乃彼氏いないじゃん。てか誰と結婚すんのよ……どういうことか、ちゃんと説明して!」  琴音さんは私の腕を掴んで、真正面から顔を見据える。その真っ直ぐな瞳に耐えられなくて、私はすぐに視線を逸らしてしまった。  膨らんだ借金に首が回らなくなった祖父は、ある人に相談した。それが、祖父の友人だという斉藤という男だった。男といっても、祖父の同年代だから、結構なお年寄りだ。斉藤さんは地元でも有名な会社の会長、裕福な人だった。祖父は藁にもすがる思いで斉藤さんに借金のお願いをしたところ、彼は快諾してくれたらしい。……ある条件を付けて。  その条件こそ、私だった。  5年ほど前に奥さんを亡くした斉藤さんと私が結婚すること。それが、融資をしてくれる条件だった。祖父は、私に相談するよりも先に了承の返事をしてしまった。 「は? 体のいい人身売買じゃない! 莉乃はそれでいいの? いやじゃないの?!」  琴音さんの怒りのボルテージが上がっていく。  私だって、嫌に決まってる!   まだ二十四歳、恋人はいたことがなかったけれど……いつか相応の人と結婚して家庭を築きたいとぼんやりと考えて生きてきた。たとえ家族のためとは言え、自分よりも五十も年上の男性の元に嫁ぐことは考えられない。その話、お断りは出来ないの? そう口を開こうとした瞬間、私は言葉を失った。  祖父だけじゃなく、その場にいる家族全員の目の色が……まるでヘドロがたまったようなどぶの色をしていたから。  それを見た瞬間、私の体は恐怖で小刻みで震えていた。今まで、普通の家族のように愛されてきたと信じ込んできたのに、今目の前にいる両親も祖父も、自分たちの生活を守るために……私を犠牲にしようとしている。口よりも雄弁にその目の色が語っていた。
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