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52. 黒界
上空から緩く軌道を曲げ、ロクは詠月の黒界へと舞い降りる。
領域の中でも飛び切り黒い核心に、光は一切存在しなかった。
天地すら不確かになる暗闇で、刃が彼の胸を貫く。
砕け散ったロクの破片を、詠月は手で払い退けた。
「御所よりよく出来た虚だ」
「回復したからな」
これはブラフと言ってよい。
西陣相手には影を控え、突入は円町の力を借りた。それで溜められた影は少なく、持久戦になると燃料切れを起こすだろう。
しかし、詠月も短期決戦を望んでいるはずだ。
いくら月輪が強力でも、何百人と影に落とし、京の鬼門を開けば影は底を打たないとおかしい。
「俺に追いつかれた時点で、お前の負けだ。諦めろ」
「逆だな。烏丸さえ捧げれば、鬼門を開くには足る」
鳶口が詠月を突き、刀がロクを斬る。
二人の虚像は次々と立ち現れ、お互いがそれを砕いた。
「お前の影は月輪にも比する濃さだった。鳶口一つで、よくもそこまで練り上げたものだ」
「評論家気取りとはな」
詠月の虚像がロクの回りに出現するや否や、彼は鳶口を投げる。
回転して飛ぶ鳶口が、六体全てを葬った。
喋り続けるのは、本体を悟らせない撹乱のためか。
複数の詠月が、声をダブらせて話を続ける。
「鳶口一つ。本当にそうなのか、疑問が生じた」
刀を鞘に納めた詠月に、ロクの眉がピクリと動いた。
「お前はなぜ、影縫いで在りながら名を二つ持っている? 烏丸は通り、ではロクが表すのは何か」
詠月は鞘を腰から抜く。
月輪を使うつもりだと考えたロクは、発動の隙を狙って間合いを詰めた。
円で詠月を囲おうとする彼に、刃の閃光が走る。
居合の速度に、さすがのロクも受けに回った。樫の柄を影で包み、両断されるのを防ぐ。
だが、ここまでの戦闘で、詠月は柄についた小さな傷に目を付けていた。
西陣の鋸を止めた際に刻まれた傷だ。妖刀は鳶口を半切して、黒鋼の鈎が宙を飛ぶ。
刃がコートに触れると同時に、ロクの影が破裂した。
「虚へ逃げたか。その紬、曲者だな」
かなり影を削られはしたが、深手を負うのを墨流しのコートが防ぐ。
六条、轆轤町、六地蔵――。詠月は地名を挙げて行き、次にそれらを否定した。
どれがロクの由来でも、コートが縫い具など有り得ない。
「ロクは六。鳶口と合わせて、貴様は縫い具を七つ持つ化け物だ。違うか?」
「お前に言う資格はなかろうよ」
「そう、私と同じだ。九十九からあぶれた神具を使うという点でな」
この推理は八割方、正解だった。
御所の裏鬼門、烏丸通に面する護王神社に埋まっていたのが鳶口である。
他の六つは縫い具ではないし、元はどんな形状をしていたのか、ロク自身も知らない。
かつて都の周辺には、鳥辺野と呼ばれる風葬地がいくつも存在した。
遺体を野晒しにして、鳥が啄むに任せた場所だ。
これら六箇所在った冥界と現世との交差点を、六道の辻と称する。
六道の辻にもまた陽金の神具は埋められ、人の死を吸って黒化していった。
風葬場が街へと変わり行く際に、それを掘り起こし、何年とひたすら叩き続けて粉にする。
黒粉を水と混ぜて布地に定着させたところ、墨流しのような細かいマーブル模様が生まれた。
この布で先代錦に仕立てさせたのが凶鳥の衣、ロクの着る黒套である。
「外套より、それを着て動けるお前がどうかしている。生ける月輪の如き男だ」
詠月の指摘こそ、ロクが懸念したもの。陽鏡が月輪に反応するのなら、黒套の力を放っても危険に思える。
だが鳶口では詠月を縫い切れないと言うのであれば、それを使うしかないだろう。
無風の空間にも拘わらず、コートの裾が激しく跳ね上がった。
「それでよい。来い、烏丸ロク!」
下方から突き出された刃を、ロクは宙に飛んで避ける。
詠月の身丈を超えた高さで止まった凶鳥は、刀の峰に沿って滑空した。
コートは翼となり、四つ脚は大きな爪と変化する。
体当たりされた詠月は消え失せ、鳥は羽根を広げたまま着地した。
落ちていた鳶口の先を、鈎爪が掴む。
最早、影の塊となったロクへ鳶口は吸い込まれていった。
背後から斬り掛かる妖刀の一閃。
斜め上から振り下ろされた刃を、うなじから生えた爪が受け止める。
「ぐっ……」
初めて詠月から呻きが漏れた。
消えて退こうとする詠月を、背中から湧き出たもう一つの鈎爪が掴み止める。
虚であろうと、逃す爪ではない。
三つ爪はジリジリと閉じ、剣士の肉へ食い込む。
鳥の体はいつの間にか前後を反転し、更に四つの爪が全身に現れた。
詠月の足へ、腹へ、肩へ鋭利な鈎を突き立て、万力のように力を加える。
冥府へ導こうとする凶鳥に、刀が何の役に立とうか。
刃が影圧に耐えかね、僅かな歪みを見せたその時、鍔が影を吸い始めた。
月輪が鳥の力を奪う。
爪が緩んだ瞬間を捉えて、詠月は素早く後ろへ跳び退いた。
猛烈な勢いで影を吸った月輪は、間を置かず反転する。
噴出した影によって、凶鳥すら圧迫感を覚えるほどに黒が満ちた。
「刻が来る」
詠月の言葉通り、全ての影が波立った。
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