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静の恋
台所仕事を終えたトラ子が、店の掃除へ向う。
「ここ東京だっただよ。東京郊外を転々としてたけど、まさか、とうとうど真ん中に」
トラ子の肩の上にいるガマ吉も、頷く。
「大都会だな」
店先に出ると、トラ子はのけぞり、逃げ出す体制になる。
休憩用の椅子で紅子がお茶をすすっているのだ。
「怖いお姉さん! もう居場所がバレただよ! さすが邏卒の包囲網すごいだよ」
ガマ吉を一瞥したあと、ボソリと紅子がいう。
「静に聞いた」
トラ子とガマ吉は、あきれて声を合わせる。
「静ッ!」
トラ子が走って逃げようと、回れ右をすると円にぶつかってしまう。
トラ子や、ガマ吉の危機感とは正反対に円がほんわか話す。
「危ない、危ない。どうしたの」
「どうも、こうもないだよ! ガマ吉を狙う怖いお姉さんがいるだよ!」
相変わらず、円がのんびり話す。
「そうそう。静がバラしちゃったみたいだから、とりあえずお茶を出してたんだ」
「ゆるいだよ!」
円の態度が分からず、とにかくトラ子は焦る。
ガマ吉を消すと言って目を、ギラつかせていた紅子を思い出す。
確かに、この前程の威圧感はないが、それでも、ガマ吉と離れてしまう可能性がある以上、トラ子は当然、警戒する。
トラ子がガマ吉を守るように抱きしめる。
しかし、紅子は特に動こうとしない。相変わらず、紅子の方もお茶をすするのみだ。
「……何で捕まえないだよ」
トラ子の質問には答えず、紅子がガマ吉を睨みつける。
「お前、この娘と、すなくとも5年繋がっているんだってな……。お前、この娘を食らってないのか。だから、そんな姿なのか」
ガマ吉は紅子から目をそらし何もいわない。
そんなガマ吉に紅子がいう。
「円先生が、あんまりいうから、上への報告は少し考える」
紅子はどうやら、トラ子とガマ吉を見逃すと言っているらしい。あの鬼気迫る紅子を円が説得したように聞こえる。
「先生、本当にすごいだな! このお姉さんまで!!!」
そんなトラ子の安心も束の間。
紅子がガマ吉を、またギラついた、憎しみの籠もった目で睨みつける。
「だが、この娘になんかしてみろ。その時はお前を殺して強制的に糸を切る。邏卒を総動員しても。絶対に消す。分かったな」
紅子からまた「消す」という言葉が出てきて、トラ子は不安になる。人は人から何かを言われたからといって根本が変わるものではない。
本当に様子を見るためでしかないのだ。
それが紅子にとって都合のよいもので、別に自分やガマ吉のことを考えて、ましてや円の説得に理解を示したものではないのかもしれない。
紅子の目にはそれらを感じさせるものがある。
トラ子が紅子に食ってかかる。
「だからッ! ガマ吉は、そんなことしないだよ! ずっとオラのことを守ってくれているだよ! そんな怖いこと……」
トラ子がガマ吉を抱きしめながら、後退る。
トラ子はこの場所から逃げる決意を固める。
円は今までに出会ったことのない人物だ。ガマ吉以外で、自分に親切にしてくれる人だった。
しかし、ガマ吉に危険が及ぶ可能性がある以上、この場にいるわけにはいかない。
また、あの力を使って、紅子と円をここに留めておけばなんとかなる。
トラ子が紅子に手をかざそうとし、少し腕を動かす。
その行動を見透かしていたように、紅子はお茶を手に持ったまま横目でトラ子を見る。
「逃げるか?」
妖怪のこと、自分の置かれている立場のこと、すべてが紅子の方が情報量において上だ。
ガマ吉の力を借りたとしても、今、紅子にまったく適う気が、トラ子はしない。
どんな行動も、紅子の想定内のものになってしまいそうだ。
紅子が、トラ子が理解をしたことを、そして理解できることを分かっていたかのように、付け加える。
「逃げても無駄だ。その時は捕まえる。ここにいる限りは、黙認してやる。場所を把握出来ていれば、それでいい」
ガマ吉はガマ吉で、何がトラ子にとって最善なのかを考えている。財布の姿のガマ吉からも、緊張感が感じとられる。
トラ子、ガマ吉、紅子に張り詰めた空気が流れる。
のっそり円が、会話に入る。
「トラ子ちゃん、ガマ吉くん。こう見えて紅ちゃん、良い子だから大丈夫だよー」
円の拍子抜けするような声に、トラ子はハッと我にかえる。
そして、あきれたというか、それでいて尊敬も入り混じった変わった気持ちになる。
そういえば、この目付きの悪い紅子のことを、誰一人として寄せ付けなさそうな紅子のことを、円は始めから「紅ちゃん」と呼んでいた。
「円先生、すごいだな……。この怖いお姉さんとも仲良くできるだか」
「吉川紅子ちゃん、紅ちゃんだよ」
ガマ吉も円の振る舞いに驚く。
「その呼び方許されるの、円先生だけだな」
ちょっと納得いかないトラ子が声を上げる。
「弟がすごい扱いを受けている事も知らずに!」
円がきょとんとした顔をする。
「え? すごく良くしてもらっているって話だよ」
そして紅子が当然だと言わんばかりに頷く。
「すごく良くしている」
紅子は本当にそう思っているようで、冗談めいた口ぶりですらない。
トラ子はつい、紅子の名を呟いてしまう。
「紅子……」
そんなトラ子に、紅子が少し、ほんの少しだけ、微笑んだように見える。
紅子がそんな顔をするだろうか。トラ子は見間違いだと思う。
紅子が腰を上げる。
「呼捨てか……まあ、いい。そういうことだ……」
立ち上がった紅子が、空になった湯呑を円に差し出す。
「ごちそうさまです」
円に軽く会釈して、紅子が立ち去っていく。
あれだけ緊迫があったのに、何事もなかった。トラ子は何が何だか分からない。
「結局、何をしに来ただか? 牽制しにきただか」
円はトラ子の言葉が不思議だったのか、首をかしげる。
「うん? トラ子ちゃんを心配して様子を見に来たんでしょ?」
円の言葉にまた、トラ子が戸惑う。
「そ、……そうだか……」
円がポンと手を叩く。
「あ、そうだ、そうだ。あと、今日も静来るって。さっき会った時に言ってた」
「今日もだか! ホームシックだか?」
「やっぱり邏卒の仕事が大変みたいなんだよね」
ガマ吉が納得したように、うんうん頷く。
「分かるな。ああいうタイプの奴が、意外にストレス貯めてたりするよな。妙なサービス精神あるっていうか」
トラ子もガマ吉の言葉に共感する。
「自分でも、気付かない的なのあるだなー」
二人のやりとりに、円が笑う。
「君達、とても、しっかりしているよね」
「そうだか?」
そんなトラ子にまた、円が笑う。
「あとで、みんなで買い出しに行こうか」
「行くだよ! 荷物はオラが持つだよ!」
トラ子が円に向かって両手を上げてみせる。
「ふふ、ありがとう」
トラ子はひとまず、この場所にいられることが嬉しい。多分、紅子が良い人なこともトラ子は分かっている。
ーーー
静がフラフラと街を歩く。
紅子からの叱責に、山のような事務仕事。
邏卒はもっと刺激的な毎日かと思ったのに、大半は事務仕事だ。
静は意外にも頭の回転が早く、気が利くため紅子が評価した上で任せているのだが、静は気が利く割に、そう言ったことには気付かない。
気配りも得意なのに、天真爛漫な部分が災いしてか、空気が読めない事が多く、紅子にいつも怒られる。
つまり、世渡り上手そうにみえて、かなり不器用だ。
毎日、毎日、似たような日々の繰り返しなのに、トラブルはいくらでも起きる。
静は疲れで、ぐったりしてしまう。
「今日も残業、明日も残業。デートするヒマもない……。彼女もいないけど……」
静が深いため息を付く。
「どっかに彼女落ちてないかなー」
静は女性が倒れていることに気付く。
慌てて、駆け寄り、女性を抱え起こす。
「大丈夫ですかッ!?」
女性が、うっすら目を開ける。
ほっそりとした首筋、真っ白な肌に、輝くような瞳。ものすごい美女だ。
すっかり、見とれてしまって、静は言葉も出ない。
抱きかかえている状況にドキドキしてしまう。
形の整った口から、唐突に言葉が発せられる。
「私のこと……、キレイだと思った?」
うるんだ宝石のような瞳で、女性が静を見つめる。
心を見透かされてしまって、静は焦る。
「え!? そんな下心は、けっ、決して!!! 倒れいらっしゃっていたわけで、その時は顔が、見えなかった、わけで…、大変お綺麗いですがッ、わたッ」
そんな静の唇を女性が人差し指で、そっと抑え、静の言葉を遮る。
静は言葉だけでなく、もう見動き一つとれない。
そして、女性がそんな静を見て、可憐な笑顔を見せる。
細く美しい指を静の唇にあてたまま、女性は呟く。
「ふふ、可愛い」
静の鼓動が高鳴る。
ーーー
「そんな出来過ぎた話あるだかー?」
「金取られるのがオチだな」
皆で、昼食をとっていると、静が最近できた彼女との出会いを話し出す。静はその彼女と、これからデートだそうで、制服ではなく、袴姿だ。
トラ子とガマ吉は、過酷な人生経験から、静の話を斜めにとらえてしまう。
静はガマ吉とトラ子の反応に当然、納得がいかないのか、手に持った箸を二人に向けながら文句をいう。
「子供に財布よ……。なんてことをいうんだね!」
静の耳に聞き慣れた女性の声がする。
「なんだ、その女。胸糞悪いな」
『ねーっ』と、トラ子と紅子が、ピッタリ息のあった調子で同じ方向に首を傾ける。
横を向くと静の隣には、紅子がいる。
「隊長! 何でこんなところに! しかも、なんで、こんな時だけ、仲がいいんだね、君達!」
のけぞって驚く静にトラ子があきれる。
「さっきから、いるだよ。静はずっと、のぼせてて上の空だっただよ」
紅子は正座をし、姿勢よく食事をとっている。
「円先生にお呼ばれしたんだ」
円がほんわか、紅子に微笑む。
「私というか、トラ子ちゃんって言ったほうがいいかな。紅ちゃんの胃袋を掴むんだって。静がバラしちゃったからね」
「今日のご飯はオラが作っただよ!」
静は自分がトラ子とガマ吉のことを紅子に話してしまったことには、特に何も言うことなく、トラ子の料理に関心する。
「本当に美味しいよね! トラ子ちゃん、俺のところにお嫁に来てよ」
その言葉にトラ子がギョッとする。
「え!」
「あっ、ゴメン! 先約があるんだった!」
そう言って静がトラ子にウィンクまでしてくる。
「面倒くささが、スゴイだよ!!」
紅子が手にとった小鉢を見つめる。
「娘。お前が作ったのか……」
「娘じゃないだよ。トラ子だよ」
紅子が、そっとトラ子の頭に手をのせて、トラ子の頭をなでる。
だが、その顔はいつものように怖い。
当然、トラ子は戸惑う。
「行動と、表情の差がひどくて、リアクションに困るだよ……」
円がそんな二人を微笑ましく見つめ、紅子の行動に説明を加える。
「美味しいって」
「そ、そうだか……」
そんなやりとりに静は、まったく興味がないようで相変わらず、のろけ続ける。
「で、今日は3回目のデートなわけ! フフフッ! もう、すっごいキレイなの! 優しいの! フフフッ」
そんな静をトラ子は心配する。
「静、大丈夫だか? 浮かれた子供はケガしやすいだよ」
「……トラ子ちゃん、君は俺より5つも年下の13才だよね!?」
円も静を心配する。
「トラ子ちゃんの言うとおりだよ、静。嬉しいのは分かるけど、少し落ち着きなさい」
「大丈夫、大丈夫! めっちゃ落ち着いてるから! 愛に生きる男だから! じゃあデートに行ってくる」
みんなで一緒に、静を見送る。
「行ってらっしゃーい」
静が戸のところで足をぶつける。暫くぶつけた足を手で抑え、屈んでいる。
余程痛いらしい。
少しすると、片足でピョンピョン飛びながら、出かけていく。
「本当に……、大丈夫だかッ!?」
円がゆっくり、味噌汁をすする。いつもの、おおらかさで、あまり気に留めていないようだ。
「最近、元気なかったからねー。まあ、良かったんじゃない?」
ーーー
静が橋のたもとに行くと、少し顔を下に向けた女性がいる。その姿は物憂げで、美しい。
彼女の長い柔らかそうな髪を風が少し揺らしている。
彼女の名前は「氷央」。
静は氷央が自分を待つためにそこにいるというだけで、胸が高鳴る。
「氷央ちゃん!」
氷央が静に笑顔を向ける。
「しずか」
氷央の口から自分の名前が発せられる。
それだけで、静は目眩を起こしそうだ。こんな心地よい、目眩があっただろうか。
地面から足が浮いて、飛んでいってしまいそうだ。
「ゴメン、待たせちゃった?」
氷央が可憐に首を横に振ると、キレイな髪も一緒に左右に揺れる。
「ううん。少し早く来ちゃったの」
静より少し背の低い氷央が、静を見上げ、見つめる。
静は目眩を起こしそう……というか、目眩を起こす。こんなに可愛い子が自分の彼女だと信じられなくて。
静が目頭を抑える。
「静? どうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫! 氷央ちゃんが、あんまり可愛くて、目眩が…」
「!? 何それ!」
今度は氷央が、カラカラと、手毬を転がすように、軽快に笑う。
氷央の何もかもが、眩しくて、可愛らしくて、仕方がない。
静は氷央のためなら何でもできる。何でもしようと、思う。
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