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19 やって来る者
*
三陸の海が拡がる。鈍色の海原から冷たい風が吹きつける。髪は男のように短くカットしたから、顔にまとわることはない。
たった一人になってしまった。家族も友人も捨てた。今の満裡は失踪者だ。
この海を越えて遠い処へ行ってしまおう。再び戻ることなく……
あの日、黒十字に包囲された夜。満裡たちが跳ばされた直後、仲嶋邸で大爆発が起きた。ガス爆発と報道され社会的には決着したが、後に仲嶋から聞かされたのはまったく違う話だった。
支援ネットワーク所属の科学者による説明はこうだ。
四人もの容積が十キロあまり離れた場所に移動したため、通路となった〈空間の狭間〉が捻じれの限界を超えた。伸びきったゴムが瞬時に戻る。捻れは急激な逆回転で凄まじい衝撃波を生みながら、起点となる仲嶋邸を直撃して収束した──
爆心地に不審な死体は一つもなかった。黒十字が大あわてで回収したのだろう。
ここに一つの希望がある。彼方の星の光ほど微かな希だが。
混乱に乗じて、黎には逃げるチャンスができた。あるいはネットワークに救出されるチャンスが。爆心は一階、黎は二階もしくは邸外。銀の手錠で跳べない黎に、与えるチャンスはそれしかない。
この胎児は、そこまで読んで仕掛けたのだろうか。そら恐ろしい。
科学者は、こうも言ったという。「王は既に降臨されている」
だが、そんな希もやがて色褪せ、すっかり時間に喰い尽くされてしまった。あれから半年になる──
陽が傾いている。長い時間ぼんやり海を眺めていた。
砂の道を引き返した。防風林を抜けて土手を越えると、先に小さな町がある。忘れ去られたような地方の、さらにはずれ。そこに建つアパートが今の棲家だ。厚い雲の下、人通りの絶えた道を辿る。
外階段を上って部屋に戻る。殺風景な部屋。若い女性のものは何も置かれていない。生活に必要なものだけだ。
二階を選ぶのは、前の住まいと黎の部屋がそうだったからだ。窓からは、土手に遮られて海も見えないが。
それでも充分なケアを受けている。
週一回来てくれる婦人科の女医は、とてもやさしい。亜種同士だし心が通じる。満裡の母親になりすまし、野暮ったいパーカーを着て、ママチャリでやって来る。手土産を抱えて大家を訪ね、娘がお世話になります、と挨拶した。
不倫のタネを宿したふしだらな娘、と大家は思っているらしい。たまに訪ねる仲嶋さんは、おおかた不倫相手にでもなっているのだろう。かわいそうに。
「ベビーの名前は決めたの?」女医に訊かれた。
「メイ。男の子でも女の子でも。明るい、の〈明〉と書いて」
「何か意味があるの?」
「パパの名前と繋げれば」
「パパは、黎さんだから……黎明。夜明け──か。ステキ!」
わたしの胎児が王です──何度か女医に言いかけたが、止めた。それは、この胎児が自分で証明することだ。
「順調よ。もうじきね。産院のほうは準備できてるから」
そんな会話があったのは、一昨日のことだ。
棚に一冊の文庫本が載っている。仲嶋に頼んで手に入れた。胎教に悪いのでは、と彼は心配したが、どうしても読みたかった。
ブラム・ストーカー作の〈吸血鬼ドラキュラ〉。吸血鬼物語の原典といわれる。
五百ページを超えるものを一気に読んだ。伝承を集め、考証のうえに書かれている。ヒト側の執筆者は、冥種をバケモノとして描く。
娘が吸血されるくだりがある。
娘はバケモノから逃げ廻ったりしない。月夜の径を、寝間着姿のまま、裸足でバケモノの元へ行く。別の夜には、開け放った窓から、ロミオを待つジュリエットのように身をのり出し、白い喉をさらす。温かい血を与えるために──
満裡は、その時代の花嫁を思った。
身内によって胸に杭を打ち込まれ、絶命した娘。掟やぶりの恋など許されない時代だ。冥種に恋した娘は、家の名誉を守るために殺された。
夜半──
満裡は目覚めた。腕にチリチリする感覚がある。静電気を帯びたように産毛が立っている。
雲が割れ、窓から月光が射して闇を薄めている。海底のような室内。
やって来る者がいる。ここへ。まっすぐに。
丸く膨らんだ腹に手を置いた。
胎児の影響で感覚が研ぎ澄まされている。
どこかの犬が激しく吠えた。異質なものを嗅ぎとったのだ。だがすぐに、それは怯えた啼き声に変わる。そして途切れる。犬小屋へ逃げ込み、畏怖して息をひそめ、やって来る者が通り過ぎるのを待つのだ。迷信の時代、夜魔が徘徊した夜のように。
満裡はベッドを下りた。そして鏡に向かい、髪だけを整えた。化粧する時間がない。
──希は、喰い尽くされてはいなかった。
満裡は玄関に向いて立った。
昂りはない。凪いだ湖面のように平らな気持で待つ。なんて図太くなったのだろう。
ドアの内側で、人型に空間がよじれる。デジタルモザイクが充ちる。
黎がそこにいた。
半年分背が伸びている。
「おかえりなさい」
「遅くなって、ごめん。救出されて治療を受けて、潜伏していたから──」
そんな話どうでもいい。キスが先だ。
満裡は抱きしめる。
月光に造られた二つの影絵は一つになる。一つの中で、三つの心臓が鼓動する。
このまま一つに溶け合ってしまったらいい。そうしたら、もう悲しい思いはしないで済む。
「躰、治ったのね」長いキスの後で満裡は訊いた。
黎は頷いた。目に生気が充ちている。
「襲撃されたのがショック療法になったようだって、医者は言ってた。免疫がどうとか」
「じゃあ、初めからわたしがスパルタ教育すれば良かったんだ」
心持ちふっくらした頬には、生えはじめた柔らかな無精ヒゲがある。男の貌になりつつある。中性的な綺麗な貌を見れなくなるのが、ちょっと寂しい。
抱き合った二人に挟まれて胎児が動いた。
「メイって名前にしたの。いいでしょ?」
「もちろん」黎は掌を胎児の上に当てた。「すごく元気がいい」
「とっても強いの。乱暴者になるかも。女の子だったらどうしよう」
「満裡先生そっくりになる」
満裡は微笑みながら夫を睨んだ。
黎は頚の側面を満裡に向けた。「さあ。きっとメイが欲しがってる」
血液──メイに必要なもの。生まれてからでいいのだが。
亜種のわたしには必要ない。それでも、唾液が湧くように吸血牙が伸びる。愛する者の血を求めている。
わたしは血を吸う。正真正銘の吸血鬼だ。
いや、鬼などと言うのはよそう。鬼はヒトのことなのだから。
わたしたちの黎明が始まる──
※ 怪物との戦いを避けよ、さもなくば自分もまた怪物となる。
ニーチェ
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