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3
視界は闇に包まれ、光は何処にも無かった。
正面に立っている友の姿すら、目を凝らさなければ何も見えない。
友は闇に紛れるように佇んでいる。
しかし青白い顔で、幽かに微笑んでいた。
暗い世界の中では二人の他に誰もいない。
アルベルトは不思議な気持ちで彼を見ていた。
とても長い間見ていなかったように思う友の笑顔を、悲しいわけでも怖いわけでもなく、ただ心静かに見つめているのだ。
彼はどうして笑っているのだろう。
自分はどうしてこんなに落ち着いているのだろう。
この夢の世界で。
アルベルトは無性に彼に触りたくなり手を伸ばした。その手はいとも簡単に友に届いたが、アルベルトには何の感触もなく、そのまま友の体を突き抜けてしまった。
はっとして顔を上げると、友の姿は前よりも更に見づらくなっていた。
アルベルト
声を上げかけたアルベルトよりも早く、闇に溶け込みそうになりながら、繰り返し聞いたあの声で友は言った。
幸せになるのかい
微笑みからこぼれ落ちたその言葉は、遠い昔に聞いた事のある、ひどく優しい声だった。
アルベルトは頬に温もりを感じ、目を覚ました。
そこはもうすっかり慣れたベッドの上で、瞳に映り込んだのは、形の良い青く澄んだ瞳だった。
「泣いてるよ、アルベルト」
その青い目で一つ瞬きをしてフォーは言い、アルベルトの頬の涙を指で拭った。
「悲しい夢を見たんだね」
窓の光を背に受けているせいか、寝起きに見るフォーの姿はとても眩しい。横向きになり顔を逸らしてからアルベルトは答えた。
「………別に悲しいわけじゃない」
「そう?」
フォーが微笑んだのが雰囲気で分かった。こんなぶっきらぼうな返事で、なぜ笑むことが出来るのだろう。
「名前をね、呼んでたよ。寝言で」
「……いつから見てたんだ」
「誰の名前?大切な人なんでしょう」
断定する言い回しが気に障った。
「そんなんじゃない」
しかし語気を強めても意に介す相手ではない。
「また会えるといいね」
「…………」
朝食を並べ終わると、盆をもってフォーは部屋を出ていった。扉が閉まる音を聞きながらアルベルトは思った。
毎晩のように会っている。
そして同時に、友の笑顔を思い浮かべ、もう会えないのかもしれないとも思った。
悲しい夢を見たんだね。
悲しい夢でないのなら、なんなのだろう。
ずっとフォーを殺したいと思いながら、漫然と数日がまた流れた。
当然のように穏やかな時間が続いた。
窓辺から射す緑の光、鳥のさえずる声、朝餉の匂い、心地よい温度の空気。
夜、眠っているフォーの前に立つと、それらと、月夜の晩に見たあの、摩天楼を指さす彼の姿がちらついて、何をする気力もなくなるのだった。
あの夜のことと、あの表情のことが妙に気にかかっていた。
春でも売っているのだろうか。
訊きただすことも、無関心になることも出来ないでいる。
フォーは特に変わったところもなく、相変わらずにこにこ毎日過ごしていた。
夜だった。
暗い部屋の中で一人、ベッドに腰掛けアルベルトは剣を抜いた。
窓から入る微かな月の光が、刀身の上で銀色に反射する。
アルベルト
幸せになるのかい
友の声が耳によみがえった。
そう、悲しい夢を見ていたのではない。
フォーの存在によって、肉体以外にも確実に何かが回復し始めていることをアルベルトは感じていた。
幸せになる?
この深い森の中で、孤独に生きるあのこと?
アルベルトは溜息を付き、剣を鞘に納めた。
なんだか眠りにつく気がしなかった。
水でも飲んで気持ちを落ち着けようと台所へ向かうと、ふと、出窓に積み上がっている本が目に入った。
昼間フォーが読み散らかしてそのままにしていたものだ。
その本と本の隙間に、何か紙切れが挟まっている。何故だか気になり、アルベルトはそれを手に取った。
「これは…………」
アルベルトは目を見開いた。
それは自分の手配書だった。
アルベルトの身柄には、大金がかけられていた。情報だけでも、一人暮らしのものならしばらく安心して暮らして行ける程の金額だった。
忘れかけていた自分の境遇が、突然目の前に立ち現れた。
思わずアルベルトはよろめき、その後自嘲の笑みが零れた。
幸せになるだって?
なんて夢をみたんだろう。
そんなことが許されるはずもないのに。
どうしてだろう、この数日間があまりに穏やかだったからだろうか、自分もフォーと同じ、普通の暮らしが出来る者のような、何故かそんな気がしていたのだ。
「金目当て……だったのか……?」
そうだ、そんなものだとも。
自分を納得させるようにそう思う。
何を動揺することがあろう、はじめからなにもかもおかしかったではないか。無償で得体の知れぬ人間の世話をする者など、そんな都合のいい奴がいるわけがない。しかも王子とバレることも無いままなんて。見破ることの出来なかった自分の方がどうかしている。
逃げよう、殺して。
アルベルトは拳を握りしめた。
自分の素性を知られている以上、行方を眩ましたら騒がれるに決まっている。そんなことをされたら逃げきれない。こうなってはもう殺さなくては。殺すしかないのだはじめから。
しかしまた、
アルベルト
自分を呼ぶ、まだ幼さの残る声が聞こえた。
「…………」
アルベルトは唇を噛み、苦悶の表情を浮かべた。
朝に、しよう
そう思った。
もう一度、勝手だと分かっていたが、もう一度あの朝餉の匂いを感じたかった。
今すぐはどうしてもできない。
「名前を教えるのではなかった……」
紙を本の間に戻しながら、アルベルトは呟いた。
そのまま一睡もせずアルベルトは朝を迎えた。
フォーが起き出す音を聞き、朝食の準備をする音を聞く。これで最後なのだと、決心が鈍らないよう何度も自分に言い聞かせていた。
しかし、その時
トントン
「!」
玄関の扉を叩く音がそこに混じった。
アルベルトがこの家に来てから誰かが来たことは一度もない。それはそれで奇妙ではあったが、それがこの家の普通だった。こんな早朝の訪問者は明らかに不審だ。
だがフォーは何の躊躇いもなく
「はーい」
と元気に返事をして扉へ向かって行く。
アルベルトは耐えきれず、リスクを承知で部屋の扉を細く開け、訪問者を確認した。
そして驚愕した。
そこには二人の兵士が、アルベルトの手配書を手に立っていた。
さすがのフォーもそれには驚いたのか、目を丸くして兵士の話を聞いている。
アルベルトはその場に凍り付きながら腰に差していた短剣を握りしめた。緊張で手がぬめり、鼓動が速まり始める。
夜の内に逃げるべきだった。そう激しく後悔したが、そんな事は何の役にも立たない。何より、自分の妙な感傷が引き出した結果だった。
このまま窓を突き破って逃げるか。それとも不意を突いて兵士に斬り込んだ方がいいのか。
混乱した頭で考えていると、扉の向こうでにこやかにフォーが言った。
「知りません」
加えてなにがしかを言ってくる兵士にフォーは頷き、
「はい、自分一人です」
と答えた。
そしていくつかやりとりを交わし、そのまま兵士を帰してしまったのだった。
その一部始終を、また何事も無かったかの様に朝食づくりに戻ったフォーを、アルベルトは呆然と見ていた。何が起こったのか信じられなかった。
フォーはあの手配書を見ても自分が王子だと分からなかったのだろうか。それすらも分からないような子なのだろうか。
いや、そんなはずはあるまい。それならば一人だなどと偽る理由がないのだ。つまり。
「…………」
アルベルトはゆっくりと腰の剣を鞘から抜いた。
つまりフォーはずっと、金目当てではなく全くの善意で、彼をかくまっていたのだ。
ずっとアルベルトを敵国の王子と知りながら、彼をかくまっていたのだ。
「おはよう、アルベルト」
しばらくして、全く普段通りに朝食を持ってきたフォーを
「朝ゴハ……」
アルベルトは押し倒し、その上にのし掛かった。
盆がひっくり返って、皿が割れる派手な音が部屋中に響いた。
「アルベ」
「いつから知っていたんだ」
驚いた顔のフォーの言葉を遮るように、静かな声でアルベルトは言った。
「俺が王子だと」
フォーは驚いた顔のままアルベルトを見つめた。
床の上に広がった朝食から湯気が立っていた。
「最初から全部分かっていたんだな」
アルベルトは右手に持った剣をフォーの胸元に突きつけていた。
「敵国の王子と知りながら、知らぬ振りをして、世話をして、優しい言葉をかけて。こんな俺に情けをかけて、さぞ楽しかったろう。あの国の連中と同じように!」
アルベルトはあいた方の手でフォーの頬を打った。
乾いた音が、部屋の壁に反響した。
「俺が地に平伏して感謝するとでも思ったか。残念だったな。俺はお前みたいな奴が一番嫌いなんだよ。
楽しい時間もこれで終わりだ。お前を殺して俺は逃げるぞ。看病が趣味だそうだが恩を仇で返されるのは初めてだろう。
いくらでも罵るがいい、裏切り者とな」
声を震わせて一気に捲くしあけるアルベルトをフォーはじっと見つめていた。
一瞬の沈黙があった。朝の清らかな光の中で二人の人間が見つめ合っていた。
アルベルトにのし掛かられ、刃を突きつけられながら、フォーはゆっくりと唇の両端を上げた。
アルベルトはフォーがここにおいてもまだ彼に慈愛の笑みを向けるつもりなのかと思いカッとなったが、それは違った。
アルベルトは背筋が凍るのを感じた。
フォーは笑っていた。だがそれは常の温かい笑みではなく、薄ら寒い笑みだった。それは空虚な喜びの笑みだった。いつかの峠で見た、青白い光に照らされた笑みだった。
フォーは驚きで固まったアルベルトの手に自らの手を重ね、彼の目を見て言った。
「うれしい。さぁ、しっかり殺してね」
「な……」
アルベルトは言葉を失った。
笑みを崩さずにフォーは続けた。
「何か思い違いをしているみたいだから、いつかの質問に、なぜ君を助けたかという質問に答えるね。
それは君がヒトだからだよ、アルベルト。
この森に来てから僕は手負いのケモノを三匹助けた。どれも僕なんて一噛みで殺せるものばかりだった。でも彼らは決して僕に手を掛けようとしなかった。ケモノはダメだね、やっぱりヒトでなくちゃ。
君が倒れているのを見たとき嬉しかった。君ならきっと、僕を殺してくれると思ったんだ」
またしばしの間があった。
扉の向こう、開け放たれた窓辺のカーテンが揺れていた。
「死にたかった……のか」
やっとの思いで絞り出すようにアルベルトが呟くと、フォーはにっこりと頷いた。
「すごくやきもきしたよ。どんなに前をうろうろしても何もしてくれないんだもの、アルベルト」
アルベルトは体から一気に力が抜けるのを感じた。それでも突きつけた右手だけは下ろさなかった。
驚きながらも、何か妙に納得した気持ちだった。
はじめから、おかしいほどフォーは無防備だったのだ。
「でも、なんで」
思わず言葉が零れた。
「あの人に復讐できるから」
微笑みながら、しかし、氷が割れるような冷たく響く声でフォーは答えた。
あの人、と言われてアルベルトが脳裏に描いたのは、いつかの月夜、商都の飲食店からフォーと連れだって出てきたあの男だった。フォーが言っているのはこの男の事かもしれないし、全く違う人間の事なのかもしれない。
ただアルベルトに分かることは、自分はフォーの事を結局何一つ知り得なかったという事と、フォーからは自分はただの道具程度にしか思われていなかったという事だった。
毎朝の朝食も、ゆっくりと紡がれる言葉も、あの笑顔も、すべてこの瞬間の為のものだった。彼のために成されていたことは何一つ無かったのだ。
利用されるという点では国の連中にされたことと何も変わらないはずなのに、どうしてだかアルベルトは怒りを感じなかった。かわりに彼の胸に湧き起こったのは、どうしようもない悲しみだった。
先ほどの激しさが嘘のようにアルベルトは言った。
「それなら早く言ってくれたら良かったのに。俺はずっと」
そう、ずっと
「お前を殺したくないと悩んでいたんだ」
始めから最後まで、この幾日の間ずっと、自分ばかりが相手のことを考え続けていたのだ。フォーが本当にアルベルトを見ていたことなど一度もなかったのに。
フォーは笑っていた。いつもの、もう見慣れたと言っていい、あの笑顔だった。
「ごめんなさい、アルベルト。君の気持ちを裏切って」
アルベルトは目を見開き、
アルベルト 裏切ったな
目を瞑り、ああ、と思った。友の顔が浮かんで消えた。
アルベルトは目を開くと、床に横たわるフォーの胸へ、一気に刃を埋めた。
フォーの華奢な体に突き刺さる剣に力を込めると、アルベルトの頬を涙が伝った。
フォーは微笑みながら手を伸ばしてきてその涙を拭った。
アルベルトは焦がれるような胸の痛みをどうすることも出来ず、涙と同じにフォーの胸の上へこぼした。
「フォー、裏切ったな」
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