裏切りロンド

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2 ろうそくの炎のように、ひどく偏った光が照らす世界で、アルベルトは立ちつくしている。闇の中、ゆらゆらと橙の灯りが揺れながら、彼と彼の前に横たわる友を不安定に映し出す。  裏切りたくて、裏切ったのではない。  そう思いかけて止めた。  眠るように静かな友の死に顔へ触れる。青白い頬、整った眉、そして生真面目な瞳。  あの真摯な瞳が苦痛だった。その気遣いが重荷だった。  気付くと、横たわっているのは友だけでない。老若男女、見知った顔がアルベルトの周りで死んでいた。アルベルトは無表情で、一人一人の顔を見つめた。  責任に耐えられなかった。自分にそんな価値がないことは分かっていた。  そして、皆が本当は自分を見ているのではないことも知っていた。  王子という偶像を通し、希望と幻想と、滅びへの陶酔を見ていたのだ。  やるべき事は分かっていた。  希望の言葉を口にする為だけに皆を盾にし、最後には敵国の辱めの中で死んで行けば良かったのだ。  分かっていたが、出来なかった。そんなことは無理だった!  アルベルトがそう思うと友が目を開き、彼を見据えた。命のない筈の瞳に、炎が宿り揺らめいている。  ああ、そんな目で俺を見ないでくれ。  これで皆も分かっただろう。俺が守る価値の欠片もない人間だったと。あんなに躍起になって気にかけたのに、応えられるどころか裏切られて、俺を憎んでいるだろう。  アルベルトは友に触れていた手で、彼の瞳を覆った。  だがお前達が悪いのだ。俺のことを考える振りをして、真実は己のことばかり考えていた為じゃないか。お前らが勝手に、都合の良い俺を祭り上げていたのだろう。  裏切りたくて、裏切ったのではない。  しかし、そう思いかけて止めた。  何故なら、どんな理屈をこねようと、自分が人を裏切るようなろくでもない人間であることは確かなのだから。  アルベルトは寝台の中で目を覚ました。部屋の中はまだ明るい。いつの間にか微睡んでしまったようだ。汗を拭いながら、体を起こす。  フォーの家は、今アルベルトがいる寝室と、入り口に面している台所のある部屋の2つで出来ていた。ふと気が付くと、その2つを隔てる扉の向こうで、フォーが出窓にすっぽりと収まるようにして横向きに座り、眠っていた。膝の上に、開かれたままの本が乗っていた。 「…………」  アルベルトは悪夢で乱れた呼吸が落ち着くと、寝台から下り、フォーの前へ歩いていった。  とても静かな午後だった。木々を鳴らす風の音も、空を飛ぶ鳥の声もしなかった。硝子を通して射す柔らかな陽、その下でただフォーの穏やかな寝息だけがアルベルトに届いた。  アルベルトはフォーを見た。淡い色の長い睫は陽に透け、眠っている顔は普段よりも更に幼い。  アルベルトはゆっくりと、その細い首に手を掛けた。体温と血潮が手に伝わってくる。相手の命がこの手の中に在ることが分かった。  殺さなくては。  そう思ったとき、フォーの膝の本が、音を立てて落ちた。  喉が動き、フォーの目がゆっくりと開く。アルベルトを見つめるその瞳には、驚きの色も、恐怖の色も無かった。ただいつも通りの、ぼんやりとした視線を彼に注いだ。  しばらく二人は黙り、見つめ合った。  どうしてこいつは何もせず、じっとしているのだろう。アルベルトは不思議な気持ちになった。助けた人間に寝首を掻かれるなど、思ってもみないから自分の前で居眠りなんか出来るんだろう。なら驚くぐらいしたらどうなのだ。そして自分も奇妙だ。夢から持ち出してきた殺伐とした気持ちが、肌の温もりと脈を感じている内に薄らいで行く。相手を殺そうとしているのに。  アルベルトは静かに訊いた。 「何故俺を助けた」  フォーは優しく微笑んだ。 「もう立てるんだね。よかった」  あまりに自然な様子のフォーに、アルベルトは苛立ちを感じた。これがどういう状況か、まさか分からない筈も無いだろうに。 「俺を莫迦にしてるのか」 「どうして?」  フォーはそれでも笑っている。  アルベルトは唇を噛むと両手を離し、フォーに背を向けた。調子が狂う。戦場以外で人を殺すのは、こんなにもやりづらい事なのだろうか。  フォーは起きあがり、溜息を付いているアルベルトの背中を見ていたが、不意に言った。 「ねぇ、名前を教えてくれないかなぁ」  アルベルトは振り返り、怪訝な目でフォーを見た。 「名前?」 「そうそう」  フォーは楽しそうに笑った。 「君が喋ってくれたの、初めてだと思うから」  アルベルトは面食らった。そしてじっと見上げてくる目に、気が付くと答えていた。 「アル、ベルト」 「アルベルトかぁ……、ああ、そんな感じする。似合ってるなぁ」  満足そうに笑むと、これで不便さも解消される等と言いながら本を拾い、読みかけのページを探し始めた。 呆気にとられ、アルベルトはフォーを見ていた。調子が出ないのは、それともこの相手のせいなのだろうか。  逃げなくてはと分かっていながら、漫然と過ごす日々の中で、アルベルトはいくつかのことを知った。  ここは国境を敵国へ西に幾ばくか進んだ所だということ。この近くでもっとも栄えているのは北の商都であること。そして何日かに一度、フォーがその都へ赴くこと。  フォーは黄昏時に徒歩で出て行き、朝目が覚める頃馬車で帰ってくる。行きは手ぶらだが、帰りは少量の食料と雑貨、そして書物を二三抱えていた。アルベルトは、それが何を意味するのかよく分からなかった。  フォーの暮らしぶりは質素だった。質素というよりはむしろ、殆ど何もしていないと言う方が正しい。晴れた日は申し訳程度に庭の菜園を手入れし、暇になると本を読み、時折窓辺に来る鳥にパン屑をやったりしていた。  フォーの家は森の中にぽつりと一軒建っている。  誰が訪ねてくるわけでもなく、一人きりで住んでいる。しかしこんな子供が誰の助けもなく暮らして行けるものだろうか。アルベルトは、都にその誰かが居るのかもしれないと思ったが、それもまた不自然だった。  フォーのことについて、色々と不思議に思っていたが、問いかけることはなかった。これ以上深入りしてはならないのだ。しかしフォーとの暮らしの中で、アルベルトが悪夢を見る回数は、徐々に減っていた。  「アルベルト」  陽が西に落ち、空が橙から深い青へと沈んで行く頃、盆に食事を乗せてフォーが寝室へと入ってきた。 「今日は少し寒いねぇ……冷えると傷に響くから早く寝た方がいいよ、アルベルト」  ぼんやりとした口調でどうでも良いことを言いながら、寝台脇の机に食器を並べる。アルベルトはフォーに名前を教えたことを後悔していた。フォーは笑いながら、相手の名前を呼ぶのが癖らしかった。  今日はいつもより食事の時間が早い。見るとフォーは髪に櫛を通し、普段よりもきれいな服を着ていた。おそらく商都へ出かけるのだ。  「じゃぁおやすみ、アルベルト」  フォーはこちらに微笑むと、寝室を出ていった。そして少しして、外へ出て行く音がした。 「…………」  アルベルトは静かになった部屋の中で、闇色に染まって行く窓の外を見た。暗い森の中でなら、きっとフォーを殺すことが出来るだろう。  彼は寝台から下り、繕ってあった外套を纏い、短剣を持つと外へ出た。どちらも逃げてきた時以来、身につけていないものだった。  同様に、外、現実の森の中も久しぶりだった。  昼の、木漏れ日を揺らす、淡い緑の森とは違う。暗く沈んだ夜の森に、戦場と夢を思い出し、アルベルトは一瞬眩暈を覚えた。  鬱蒼と茂った木々、不規則に伸びた枝の影が網の目のように拡がり、せり上がって歪んでくる。  「アルベルト」  呼ばれた名前にはっとして振り返ると、そこにいたのはかつての友ではなく、マントを纏ったフォーだった。 「なにしてるの?」  突然あらわれたように見えたフォーに驚き、アルベルトは動揺した。「お前こそ、都に向かったんじゃないのか」  アルベルトの言葉に、フォーは微笑んだ。 「アルベルトも一緒に行く?一人じゃ寂しいなぁと思ってた所だったんだ」 「…………」  なんと答えて良いのか分からず、結局アルベルトはフォーの後をついて歩いた。夜の森ぐらいで心を乱した自分に落胆していた。  月が青白く光る夜だった。  風が吹くと暗闇の中に輪郭だけを浮かび上がらせた木々がざわめく。地を踏むたびに乾いた葉が鳴り、時折獣の声が聞こえた。フォーはその中を慣れた様子で歩いて行く。 「いつもこんな道を歩いているのか。ランプ位、持ったらどうなんだ」  アルベルトは信じられない気持ちだったが、フォーはいつも通り笑うだけだ。 「ランプなんか。重たいよ」 「獣が出たらどうする」 「この辺には大人しいのが一匹しか居ないよ。怪我してるのを前に助けたことがあるんだぁ」 「……看病が趣味なのか」 「そうだよ」  アルベルトは皮肉気に言ったのだが、明るく返されて逆にムッとした。  道程を半分ほど行くと、視界の開けたところに出た。小さな丘のような所で、ここから下り坂になっている。この先は今までよりも多少整備されており、都までの道筋がよく分かった。 「ほらアルベルト、あれが都の灯」  フォーが坂の上に立ち、道の向こうを示した。夜空の下、摩天楼の赤い光がぽつぽつと星のように明滅する。その下は窓から白い光を放つ建物が密集していた。  あれが敵国の栄華の光か。アルベルトは無感動にそれを見た。 「人の営みの、証だね……」  そう呟くフォーをアルベルトは何気なく見た。そしてぎくりとした。  都の灯を見ながら、フォーは青白い月明かりに照らされ微笑んでいた。しかしなぜかそれは、常のぼんやりとしたものではなかった。月明かりの陰影のせいなのか、吹いた風がフォーの髪を乱したからなのか、理由は分からなかったが、すっと寒くなる笑みだった。  道が終わるまで、アルベルトは何度も短剣に手を伸ばしたが、何もすることが出来なかった。フォーのあの青白い笑みばかりが、頭の中でちらつき、そんな気になれなかった。  都に着くとフォーが会う人がいると言うので、朝まで別れることになった。  「帰りは馬車で楽だからね」  入り口でフォーは当然のように笑み、そう言った。煌びやかな街の中、フォーは大通りに面する飲食店の中へ入って行き、しばらくすると一人の男と連れだって出てきた。そしてそのまま二人で、人混みの中へ消えていった。  アルベルトはその様を遠くから眺めていた。このまま逃げた方が良いのではないかと思い続けながら、朝になるまでフォーを待っていた。
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