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まず甦るのはいつも、鼻につくあの臭いだった。
血と汗と土埃と、硝煙と肉の焼ける臭いが混ざったあの空気が、いつだって真っ先にアルベルトを包み込む。
目を凝らすと、闇の中に奇妙な枝の形をしている枯れ木が、幾本も幾本も立っていた。
アルベルトは森の中にいる。
夜の森、かつて彼がいた戦場が、現実よりも醜悪に歪んだ形で彼の前に現れている。
アルベルトは夢を見ていた。
そしてアルベルトは今見ているものが夢だと分かっていた。
何故ならそれは毎晩のように観る、いつもの夢だからだ。
毎夜毎夜、巡るように繰り返される。
「アルベルト」
背後から足首を掴まれた。
おののいて振り返ると、すぐ後ろの地面に兵士がうつ伏せて倒れている。
ぎしっと軋む音が聞こえてきそうなくらいに、重たく頭を持ち上げた。
ロから血を滴らせて、喘ぐように名を呼ぶ。
「アルベルト」
見知った顔だった。
名前も知っている。
性格も知っている。
生い立ちも、何か好きで何か嫌いなのかも知っている。
「アルベルト」
そして相手も同じように自分のことを知っていた。
破損した機関で必死に行れれる激しい呼扱の合間、声を出す暇があるなら少しでも多く酸素を取り込めばいいのに。
「アルベルト」
掠れた声で繰り返される、自分の名前に気が狂いそうだった。
「はなせ……っ」
足を振る。けれど掴まれた手は解けない。
「はなせよっ」
掴む手も、アルベルトの体も震えていた。
「はなせっっっ」
「アルベルト」
戻した血に赤く染まった唇で、かつての友が紡ぐ。
やめてくれ
アルベルトは胸中で懇願した。どうしてだか声にならない。
やめてくれ この先は聞きたくない
無惨な友の体が地に線を引くように赤く、いつも綺麗だったその瞳が暗く暗く、黒い炎を宿す。
「アルベルト」
アルベルト
裏切ったな
ガシャン!
隣室の奥で食器類の割れる音がした。
ハッとして視界に入ったのは、夜の森ではなく、まだ見慣れない天井だった。
目が、醒めたらしい。
「ああ……もったいない……」
汗でぐっしょりと濡れた服と震えて激しい鼓動を打っている体を感じながら、アルベルトは隣室の声を聞いた。
あいつ、また皿割ったのか。
起きて片づけを手伝おうかと頭の片隅で思ったが、やめた。
ベッドの右斜めに開いている窓から、緑に透けた光が射し込んでくる。朝の穏やかな光だ。
アルベルトは霞がかかったような意識で目を細める。
夢はいつもの夢だった。
夢だと分かっているのに、先の展開も分かっているのに、どうしていつも真に受けてしまうんだろうか。
こんな汗びっしょりになって、滑稽だ。
ぼんやりと、これももういつものことなのだが、そんなことを思う。ほとんど毎朝の日課と化している。
今の彼の毎日は自分をあざ笑うことで始まる。
彼は一国の主の子だった。
戦が起こり、城は落ちた。
主は死に、彼が新たな主になった。
周りが口々に言った。
国のために貴方のために、私達は命を懸けて戦うと。
……冗談ではなかった。
なぜ主の子に生まれたからと言って、最早城も土地もない国の為に死ななければならないのか。
戦の中、敵兵と自兵が乱れ、炎に揺らめく中で彼は逃げ出した。
本当は夢の中のようなことは起っていない。
アルベルトは裏切ったなどとなじられることもなく戦場を離れたし、あんな風に血塗れた友の姿を見ていない。
あるのは裏切った事実と、自軍が全滅したという噂のみだ。
なのに毎夜夢を見る。ばかばかしくて仕方がない。
「おはよう、起きてる?」
隣室へ続く扉の向こうから、朝食を盆に乗せて人が出てきた。
この家の人間でフオーというらしい。
どうみても十代にしか見えないのに、こんな森深い山奥にポツンと一軒建てられた家で、独り暮らしている。
逃亡中に負った傷が原因で行き倒れていたアルベルトを、拾ってきて世話しているという物好きな人間だ。物好きで愚かだ。
「あ、起きてた。じやあ聞かれちやったかなあ、さっきの皿の音」
ゆっくりと笑って、ベットの横にある台の上に朝食を並べて行く。
「あの皿、気に入ってたんだけどね……」
フオーはぼんやりとした口調で、それでも結構よく槃る。だがアルベルトは殆ど相手をしなかった。
どうせ後々殺す相手だからだ。
フオーの口からここが敵国の地だということは分かっている。
三日三晩逃げ続けたといっても、所詮は人の足だ。見つかるのは時間の問題だった。
怪我に適当な折り合いがついたら、さっさとここを去らなければならない。
アルベルトは淀んだ瞳でフオーを見た.
視線に気付いたフオーは微笑みで答える。
さっさとここを去らなければならない。
こいつを殺して。
去るには先にフオーのロを封じる必要がある。口を封じるだけなら殺す以外にも方法があるんだろうが、面倒だから別にいい。
「さあ洗濯をしないとなぁ。今日は気持ちいい天気だから」
アルベルトの考えてることなんて露ほどにも理解しないで、フオーは盆を片手にふわふわと出ていく。
その華奢な背を見送りながら、胸中でアルベルトはフオーに悪態をついた。
そんなんでよく十幾つも生きられたものだ。
こんな森の中で頼る者もなく一人で暮らしているというのに、見ず知らずの男を家に入れて平気でいるなんてどういう神経なのだろう。
一体どういう了見で俺を助けたんだろうか。
小鳥でも助けるようなお気楽な感覚で?
俺はそんなに惨めたらしく倒れていたか? 同情?
それとも……寂しかった?
そこまで考えたところで、フオーが窓の外に現れた。
今度は腕に洗濯寵を抱えている。庭の奥にある水場で洗うつもりなのだろう。
寵の中にはフオーの簡素な服に混じって、血で汚れた包帯と服があった。
清涼な空気の中で、汲み上げられた水が光をキラキラと反射する。
「…………」
体も大分動くようになってきた。
数日中にここを去ろう。
アルベルトは窓から顔を背けた。
洗濯するときもぼんやりとした顔をしているフオーの姿が見えなくなる。
惜しいのは、あのぼんやり加減だ。
見ず知らずの奴を家に入れるようなそんなバカな真似をするよ
うじゃ、どうせこの先長くない。
「……………惜しい……・?」
台の上に並べられた朝食から立つ香りは、毎朝それなりに魅力的だった。
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