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誰もが羨む家庭を築くはずだった。 ホテルの一室を思わせる寝室で毛布に包まりながら葛城由紀子は考えていた。 お見合い結婚ではあったが、秀夫との生活は楽しかった。価値観の違いこそあれどぶつかり合いながら成長していたはずだった。 しかし関係性にヒビが入ったのは一瞬だった。 さらにそのヒビは地割れのように広がっていった。いつしかクレバスのように深く、落ちてしまえば2度と戻れない冷えた穴。一度は過ちを犯したものの、どうにか幸せを握ろうとしていた。しかし追い打ちをかけるかのように心霊現象が発生したのだった。 ゆっくりと目を開け、隣のベッドを見る。秀夫はこちらに背を向けて眠っていた。夫婦としての会話もなく、恋人としての熱もない。付き合い始めた頃は端から見た時に自分たちはどのような関係に見えていたのかと気になったものだった。しかし今は夫婦に見えても、もう夫婦ではないのだ。 一度ため息をついて真っ白な天井を見上げる。浅い眠りに就こうとした時、味わったことのない感覚に襲われた。 視線を反らすことも体を動かすこともできない。今まで何度もその言葉を聞いたことがあるにも関わらず、実際に経験するのは初めてのことだった。 人生で初めての金縛りに遭遇し、2分が経過した。 この視線の先には、あの子の部屋がある。秀夫が隠したがるものがある。しかしその縛られた環境すら気にならないほど、由紀子の体を恐怖が支配していた。冷や汗だけが動いて首筋を伝う。最初の異変は気のせいではなかった。 視線の先、白いはずの天井に黒いシミのようなものが浮かび始めた。どこか茶色がかった黒に近いそのシミはやがて形を変え、楕円形になったかと思えば人の顔のようにも変化していった。早く金縛りが解けてほしい、早くここから逃げ出したい。そう思えば思うほど目の前のシミは形を変えていく。女性が目と口を限界まで開いて叫ぶような図、男性が口端を吊り上げて笑っている図。感覚でいえば数時間にも及ぶシミの変化は、突然治った。 助けを呼ぼうにも声が出せないことにようやく気が付く。しかしそろそろ金縛りは解けるだろう。そう思っていた時だった。 シミが突然浮かび上がったかと思うと10本の蒼白い腕へと変化し、由紀子の顔に落ちてきたのだ。悲鳴すら上げることなく噴き出ていく汗を拭うかのように10個の手が由紀子の顔を撫でて、包み込む。まるで飼い主が愛しい犬を撫で回すかのようだった。やがて耳元で低い唸り声がする。 「ろうめよ…ろうめよ…」 それは度々美智花が言う妙な口癖だった。テレビ番組で聞いた言葉を辿々しく繰り返しているだけだと思っていた由紀子は、蒼白い掌の下で美智花の無事を祈っていた。
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