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パブリカがゆっくりと路地に滑り込み、葛城家の前で停車する。どこか家全体がどんよりとした空気に包まれているのは気のせいかもしれない。 インターホンを押して家に入る。出迎えてくれた由紀子は少しやつれているように見えた。遠藤が体調を心配する言葉をかけようとした時、割って入るかのように永島が口を開いた。 「由紀子さん、呪符は?」 指摘されたくないことを追求されたような苦い表情を浮かべる。少しして由紀子は手の甲を摩りながら答えた。 「どうしてこんな胡散臭いものを買ったんだって、主人が破ってしまったんです。いくら買っていないと言っても聞かなくて…。」 先に深いため息をついたのは永島だった。どうしたら良いか分からないといった表情を浮かべて頭部を摩る。 「あの、実は…」 由紀子が何か言いかけたところで、遠藤と永島の背後に動きがあった。玄関が開き扉の隙間から秀夫が顔を覗かせ、遠藤たちを見てすぐに怪訝そうな表情を浮かべる。彼が言うよりも先に永島が口を開いた。 「秀夫さん、何故呪符を破いたんですか。あれはこの家の心霊現象を少しでも抑えるためのものなのに」 「うるさい。部外者がこの家のことに口を挟むな。」 秀夫は小柄ながらにして嫌な威圧感があった。玄関の扉を開けたまま、まるで害虫を睨むかのように彼は厳しい口調で続ける。 「いいか、霊などいるわけがないんだ。大体昔から人間は不都合な出来事を幽霊の仕業だなんとか言って目にしないようにする。君たちみたいにそういう不都合から金をせびっているのはね、詐欺っていうんだよ。何が心霊現象だ。そんなものあるわけがないだろう!」 語気を強くしてそう叫ぶと、まるで彼の怒りに対して怒るかのように、秀夫が支えていた玄関の扉が勢い良く閉まった。バタンッと音を立てて、閉め出されるような感覚に近い。秀夫も由紀子も、2人も黙り込んでしまう。強がる子どものように首を横に振り、秀夫が何か言いかけた。 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ 皿が小刻みに震える音がリビングの向こうから鳴り響く。小さな悲鳴をあげて由紀子が身構えた。心霊現象を視ようと身を乗り出した永島を遮るかのように、秀夫は言う。 「美智花がいたずらでもしているんじゃないのか。おいお前、注意してこい。」 そう命令を受けた由紀子は未だに身構えたまま、震える皿の音を聞いていた。さらに秀夫が言おうとしたところで遠藤があることに気付いた。 それは玄関の奥、白いタイルの床に玩具が置かれている。よく見ると特撮映画に登場する怪獣だった。それに何故か見覚えがあることに疑問を抱いたものの、すぐに答えは言葉となって漏れた。 「あれは諒太が遊んでいたおもちゃだ…。」 遠藤がそう言うと同時に、由紀子がさらなる悲鳴をあげた。今度は短く区切るような声ではなく、絶叫に近い。恐る恐る指差した先、小さな怪獣のおもちゃの向こうに、泥があった。 それは水田で見るような、少し茶色がかった黒い泥。砂場で水を含ませてから握っていた泥団子の色に近い。それが間違いなく泥であると判断したのは次の瞬間だった。 ビタ…ビタ…ビタ…ビタ… ただの泥が付着しているわけではなかった。こちらに近付いてくる、足跡だった。成人男性ほどの大きさの泥。子どもが泥を踏んでろくに足も拭かず家に上がってしまったような汚れだ。じゃああの足跡は誰が刻んでいるのか。様々な考えが巡る中で先に行動したのは永島だった。 「下がって。」 扉のすぐそばに3人を追いやり、永島は親指の腹を噛んだ。針で刺したように血が一滴溢れてそれを眉間に運ぶ。遠藤はこの見覚えのある仕草に安堵した。 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ 未だ鳴り続ける皿。 ビタ…ビタ…ビタ…ビタ… こちらに迫り来る泥の足跡は永島の手が届く距離にまで到達していた。その時だった。 「ろうめよ…ろうめよ…ろうめよ…」 由紀子が大きな悲鳴をあげる。その低い唸り声はまるで店内放送かのように葛城家の全体から聞こえている。震える皿、泥だらけの足跡、謎の呻き声。やがて永島は眉間から手を離し、左手に巻いてた数珠を手に取った。爪を立てて糸を解れさせ、無数の粒を勢い良く廊下の奥に放り投げる。ぱらぱらと粒が床を弾く音がしたと同時に、泥も怪獣のおもちゃも、鳴り続けていた皿も低い唸り声もぱったりしなくなった。永島は少しだけ息を荒くして振り返る。 「分かっていただけましたか。この家はおかしいんです。」 驚いた表情を浮かべたままの秀夫は視線を泳がせた。無理もない、今まで心霊現象をまるで信じていなかった男の目の前で立て続きに不可解な出来事が巻き起こったのだ。しかし急いで取り繕ったように秀夫は言った。 「き、君。さっき何と言った?」 彼の視線は遠藤に向いている。秀夫は確かめるように続ける。 「諒太というのは誰なんだね。」 いつの間にか口にしていた過去の被害者名。遠藤は永島と目を見合わせた。諦めたように永島は首を横に振る。 2人は5年前のことを話した。新田光博、新田梨花という夫婦が日翠山で無理心中を図り、中村一家の長男に2人の霊が取り憑いたこと。そして彼らは霊に操られたまま無理心中という形で亡くなったこと。そしてその霊がこの家に悪影響を与えているということ。全てを偽りなく話すと、改めて重苦しい出来事であると痛感した。 「だから、あなた達も危ないんだ。早く除霊をしないといけない。」 由紀子は何かに気が付いたような表情を浮かべていた。やがて眉をひそめていく彼女に声をかけようとした時、秀夫が突然声を荒げた。 「君たち、失敗したってことだよな。そんな奴らに任せられると思うか。」 痛いところを突かれた時、人はうまく言葉を発せなくなることを知った。秀夫は弱点を見つけたかのように捲し立てた。 「帰ってくれ。これが本当に心霊現象だったとしても、君たちには頼まない。一度失敗した人間に何ができるというんだ。出て行ってくれ。」 遠藤が何か言い返そうとしたところで、永島は分かりましたとだけ言った。秀夫の傍をすり抜けて先に葛城家を出る。遠藤も諦めたようにため息をついて後を追った。 「もちろん俺たちにも不備はあったし、対策は万全にしないといけない。ただ葛城家の問題は霊だけじゃないな。」 2階建の真っ白な城を見上げ、永島は呟いた。その言葉に同意するように遠藤はパブリカの扉にキーを挿し込んで回した。葛城家の玄関の鍵が閉まる音がして、パブリカの鍵が開く音がした。
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